北大路魯山人 志野茶碗のこと
魯山人先生は、志野茶碗の制作を1940年代の戦争期を挟み死期直前までおよそ20年の間、手がけていました。
最初の時期は、古典に倣い白いモグサ土を使用し、形状も半筒形としていましたが、後半の特に戦後期には、独自の概念でもって信楽土を多用し、古典とは趣を異にする一味ふた味も違う志野焼を作り上げてゆきました。
この作品は、1940年代後半の作品で、魯山人が所有していた本阿弥光悦の茶碗の形を取り入れて作られています。ふくよかで美しいアールを持つこの茶碗は、やや大振りに作られ、口縁部や腰部、高台回りに赤味の強い緋色が現れて見ごたえがあります。
魯山人が試行錯誤しながら今までにない概念で作り上げた志野焼が出現すると、評論家をはじめ、茶道家・美術関係等各方面から大バッシングが巻き起こります。しかし、後継の陶芸家の加藤唐九郎や荒川豊藏らは、魯山人志野の特徴といえる赤味の強い志野焼を追いかけてゆくことになります。
特に荒川豊藏は、師匠でもある魯山人の影響を強く受けて、茶碗の形状自体も魯山人のこの形を取り入れました。
魯山人が考え出した赤い志野焼「紅志野」は、のちにスタンダードとなり、志野茶碗としては異風な形状についても、荒川豊藏が引用し多作したことで、志野茶碗の基本形状として確立されました。
魯山人のすごさというのは、残された名作の数々云々でもありますが、このように新しい風潮を巻き起こし、新しい文化を作ってしまう深い洞察力や美を想う迫力をもっていたということに尽きると思っています。
この作品は、現代志野茶碗のルーツとして存在します。
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