「銀座 黒田陶苑」 九十年のあゆみ
- 明治38年(1905)
- 創業者・黒田領治(初代陶々菴)、愛知県海西郡立田村(現・愛知県愛西市山路町)に生まれる
- 大正8年(1919)
- 領治、銀座二丁目にあった川本陶器店に勤める
- 昭和6年(1931)
- 黒田和哉(二代目店主・二代陶々菴)、領治の長男として東京市京橋区銀座(現・東京都中央区銀座)に生まれる
- 昭和8年(1933)
- 領治、北大路魯山人との交流を深める
- 昭和10年(1935)
- 領治、独立し東京・日本橋に魯山人作品専売店として「黒田風雅陶苑」を創業
のちに「黒田陶苑」に店名変更 - 昭和12年(1937)
- この頃より、銀座の貸画廊などで魯山人の新作個展や絵画展を開催
- 昭和20年(1945)
- 3月10日、東京大空襲で店舗焼失
4月、新橋駅前に仮設店舗を設けて営業再開 - 昭和23年(1948)
- 新橋駅前に神郡晩秋(書家)による新しい看板を掲げ、店舗を新装
- 昭和24年(1949)
- 6月28日、株式会社黒田陶苑を設立。代表取締役に黒田領治就任
銀座八丁目に展覧会場として「黒田陶苑美術部」を開設 - 昭和33年(1958)
- 新橋駅前店と美術部を統合し、銀座通り(銀座七丁目)に移転
- 昭和37年(1962)
- 黒田佳雄(三代目店主・本名 美穂)、和哉の長男として神奈川県鎌倉市に生まれる
- 昭和39年(1964)
- 東京オリンピック記念・加藤唐九郎陶芸展を企画(会場:伊勢丹)
- 昭和47年(1972)
- 木造二階建ての店舗を改築し、五階建ての本社本店ビルに新装
(一階 常設展示・二階 展覧会場・三階 応接室・四階五階 事務室) - 昭和61年(1986)
- 佳雄、入社
- 昭和62年(1987)
- 黒田領治、逝去(享年82歳)
二代目店主・同社代表取締役に黒田和哉就任 - 平成4年(1992)
- 黒田瑠美、佳雄の長女として神奈川県鎌倉市に生まれる
- 平成23年(2011)
- 三代目店主・同社代表取締役に黒田佳雄就任、同社会長に黒田和哉就任
- 平成27年(2015)
- 瑠美、入社
- 令和3年(2021)
- 2月16日、東京都中央区銀座6-2-14銀緑館ビル二階に「銀座 黒田陶苑アネックス」を開設
- 令和5年(2023)
- 黒田翔児、入社
- 令和6年(2024)
- 4月11日、東京都中央区銀座7-8-17虎屋銀座ビル五階に新本店「銀座 黒田陶苑」を開設
1. 創業
北大路魯山人が自ら彫りあげた篆刻看板「風雅陶苑」を軒先に掲げ、1935(昭和10)年2月11日に、黒田陶苑は創業しました。
創業者・黒田領治は、明治38年愛知県海部郡の伊勢神宮の宮大工の家に生まれました。やきものの産地として知られる瀬戸の親類の縁で、大正8年、14歳のときに銀座の「川本陶器店」に奉公に出ます。当時すでに一等地だった銀座で陶業人生をスタートさせたことが、「いつかは銀座に店を持ちたい」という志を育みます。奉公先の主人から「領どんは三人前働く」と言われたほどの働きぶりで、東京・日本橋の高島屋近くに黒田陶苑を創業したのは昭和10年(1935年)のこと。当初は、北大路魯山人の陶磁器作品の専売舗であり、店舗名称を「黒田風雅陶苑」としていました。
やがて気鋭の陶芸家たちの作品を扱うようになります。いずれものちに大家となり、日本の近代陶芸界を支えた作家ばかりです。明治以降、工芸や産業の分野にあった陶磁器を、芸術の領域に道を広げて行く一翼を担ってきました。つねに時代を魁ていく先取の気性は、創業の頃、初代の志のなかに撒かれた種でした。
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2. 北大路魯山人の残したもの
北大路魯山人は、「黒田陶苑」の誕生に深く関わる人物のひとりです。黒田領治と魯山人の出会いは創業の3年前、昭和8年(1933年)、「星岡茶寮」の書道談話会のことでした。魯山人は会員制高級料亭・星岡茶寮の経営者として、自らも厨房に立ち、料理を供するための器を自家製造していました。鎌倉に登り窯をつくり、本格的な作陶活動に力を入れていた時代でした。
その魯山人の作品を専売したのが、創業当時の「黒田陶苑」です。星岡茶寮を追放された魯山人の陶芸・絵画の新作展や作品領布会なども企画。作陶家・魯山人にとっても、それまで星岡茶寮で使うための器を作っていた時代から、外部に向けた作品を手かげてゆく大きな転換期になったといえます。ちなみに、昭和10年(1935年)の創業当時の看板は、魯山人の手になる篆刻。実物は東京大空襲で店とともに焼失してしまいましたが、貴重な写真が一葉残っています。魯山人と二人三脚で育んだ「陶芸とは陶器の芸術である」という精神とともに、いまに伝わっています。
3. 波山・憲吉・豊藏・宗麿
魯山人との蜜月時代を通じて、新しい陶芸の時代を切り開こうとする作家との交流も深め、扱う作品の幅を広げて行きました。板谷波山、富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎、荒川豊蔵、石黒宗麿、加藤土師萌、加藤唐九郎、金重陶陽など、いすれも戦後、人間国宝や巨匠と呼ばれた作家たちです。創業から6年後の昭和16年(1941年)、荒川豊藏、石黒宗麿の個展を主催します。荒川豊藏にとっても、桃山時代の志野再現を誓って試行錯誤をくり返し、ようやく納得のいくものが作れるようになった時代でした。石黒宗麿もまた、「黒田陶苑」の創業と同じ昭和10年に京都に窯を築き、独自の「木の葉天目」を完成させたばかり。鬼気迫る作家たちの偉業を、世に知らしめて行ったのです。
4. 土鍋を売って戦後が始まる
昭和20年3月10日の東京大空襲で、日本橋の店と江戸橋の倉庫、商品・家財のすべてを一夜にして失いました。すぐに無店舗で営業を再開、終戦後は新橋駅前に店舗を借りて開業したものの、商品にも事欠き、週に二回、夜行をのりつぎ京都、瀬戸、四日市へ仕入れに出ました。混乱と物不足の時代、窮地を救ってくれたのが「土鍋」です。日々の煮炊きをする道具すら、焼け野原の東京では不足していました。仕入れた土鍋が、飛ぶように売れました。誰もが生きるのに精一杯、用と美を併せ持つ焼き物の力にあらためて励まされたのです。
5. 美術部の設立
少しずつ戦後の復興が進み、世の中が落ち着きを取り戻しつつあった昭和24年(1949年)。銀座八丁目の銀座通りから一本入った金春通りに展示会場だけの「黒田陶苑美術部」を開設し、さまざまな催しを開くようになりました。その2年前、富本憲吉の絵画展を開くなど、混乱期のなかでも足場を見失わず準備を進めてきた甲斐あって、25年には、戦後初となる展覧会「加藤唐九郎・瀬戸黒茶わん展」を開催します。当時はまだ駆け出し、東京では無名に近かった唐九郎を皮切りに、川喜田半泥子・加藤土師萌、上口愚朗といった作家の新作展やグループ展などを精力的に開催していきます。
土鍋の需要はひと段落していましたが、生活必需品である湯呑や急須などの食器販売は新橋駅前の店で行いました。個展の開催で作家をスターダムに押し上げ、一方で作品の販売をする。それは陶芸の社会的価値の向上、「陶芸家」という存在の確立と人材の育成に大きな役割を果たしました。展覧会と販売の両輪で運営していくスタイルの原型が、こうして確立していきました。
6. 銀座に新店舗
「いつかは銀座に」と志した初代の夢は、昭和33年(1958年)ようやく叶うことになりました。現在の場所、銀座七丁目に店を移します。前後して29年に「桃里会」が発足、石黒宗麿、金重陶陽、荒川豊藏、加藤唐九郎、加藤土師萌、そして小森松庵、小山冨士夫、黒田領治が設立メンバーでした。折しも昭和30年に文化財保護法の改正により、重要無形文化財(人間国宝)の指定、認定が行われるようになりました。「桃里会」のメンバーの多くは、ほどなく人間国宝に認定されました。初代の功労がこうして実を結ぶころ、二代目・黒田和哉が新しい時代の波をとらえつつありました。それまでの近代陶芸は、古陶にいかに近づいたものをつくれるかという価値観が主流でしたが、昭和40年頃を境に、独創的な作風を求める時代がやってきたのです。
7. 二世と百貨店の時代
「より新しいもの」を求めていくことが、やがて伝統を育むことにつながる——初代から二代へと受け継がれていったスピリットです。陶芸家たちも二世の時代に入り、加藤唐九郎の長男・岡部嶺男、金重陶陽の長男・金重道明などが登場し、今までにない備前焼や織部焼をつくり出すなどの試みを行うようになっていました。八木一夫や加守田章二といった 新しい才能も登場し、それまでにない陶芸の境地が拓かれます。こうした独創的な陶芸に挑む作家を、いちはやく紹介し、同時に、先代・領治とともに歩んだ主に明治生まれの陶芸家第一世代を「物故巨匠・陶芸巨匠」という位置づけで作品展示をする活動にも力を入れるようになります。昭和39年に新宿のデパートにおいて、オリンピック東京大会記念として開催された「加藤唐九郎陶芸展」に際して、企画から作品選定・販売に至るまで二代目・黒田和哉が統括的に開催協力。当時の好景気も手伝って大きな成果を得たことが契機となり、黒田和哉はそれまで絵画・彫刻しか扱わなかったデパートにアプローチして、全国各地の百貨店で「物故・陶芸巨匠展」を積極的に開催してゆきます。歳月と労苦を費やし、「物故巨匠・陶芸巨匠」の作品を新たな美術品としてブランディングすることに成功し、世に広めることになりました。
今では一般的に開かれているデパートを会場にした「陶芸展」を盛んにし、美術界に陶芸巨匠の分野を確立したのは二代目・黒田和哉の功績といえます。
8. 新しくなった銀座通りと黒田陶苑
昭和42年12月に銀座通りを走っていた都電(路面電車)が廃止され、銀座通りが新しいストリートとして生まれ変わりました。歩道が拡幅され二車線の車道が通る広い銀座通りがこの時に現れます。銀座の象徴だった柳の並木は無くなりましたが、都電の軌道敷に使用されていた石畳を再利用した歩道が美しく整備され、日本を代表するショッピングストリートへと変貌しました。
銀座通りの整備にともない、木造二階建てだった店舗を建て替えて、昭和47年、現在の店舗ビルが完成しました。
銀座通りの石畳に直結した1階には、普段使いの食器を中心とした各地の陶芸品を常設で展示し、2階は新進気鋭作家の個展や企画展を開催する展覧会の会場として、3階は床の間を設えた物故巨匠作品を展示する応接室として、新装した店舗ビルはスタートしました。古きものを尊び、新しきものに眼差しを向けるという黒田陶苑の理念が具現化することになり、伝統と革新が共存すると謳う現在の黒田陶苑のテーマがこうして確立していきました。
9. 生活のなかの陶芸、そして日本
日本の高度経済成長とともに、昭和40年代には陶芸ブームといわれる時代を迎え、陶芸界はデパートを個展会場にした作品販売が隆盛をきわめます。ブームによって陶芸家を志す人が急増し、そのことで陶芸界の組織がより強固になり、無所属は陶芸家の資格なしという風潮もおき、しだいに陶芸界に序列が生まれていきました。デパートは陶芸家の獲得を競いあうようになり、結果的に陶芸家の作品価格の高騰につながりました。
昭和が終わり平成が始まろうとする転換期、陶芸界もまた、次の段階を迎えました。
陶芸巨匠として活躍した楠部彌弌(59年没)・荒川豊藏・加藤唐九郎・中里無庵らが相次いで他界し、一時代の終わりを告げたまさにその年、昭和60年に入店した三代目・黒田佳雄は、無所属・無名の作家に着目します。無所属であっても、革新的創造力や技術力に長けた実力派の作家を有名無名・老若男女の区別なく、初代・二代から受け継いだ三代目の確かな眼力だけで積極的に取りあげていきます。同時に新人の発掘にも果敢に取り組み、そうした若い作家らと交流を深め、同時代の感性をもってプロデューサーとしての手腕を発揮していき、陶芸界の裾野を広げました。また、陶芸巨匠の名品の美を新たな切り口で再評価し、埋もれていた名作の発掘も手掛けていきます。
まだ無名の時代に黒田佳雄が発掘し、陶芸界に放たれた人々は、その後、日本のみならず海外でも活躍する作家となっていきました。
21世紀になると陶芸界は、無所属の作家が主流を占める時代を迎えることになりました。
「普通のモノの良さ」を日本人が再認識する流れが強まり、デパートの高級品とはまた違う新しい価値観が生まれ、生活に根ざした陶芸作品が登場します。また海外では、日本ブームが起こり、日本の食文化や陶芸を始めとした伝統工芸に対する関心が高まっています。
創業90年を迎えた銀座 黒田陶苑は、つねに時代をさきがけ、時代を呼吸してきました。初代・黒田領治から受け継がれる伝統と革新の精神を杖に、黒田陶苑は銀座の真ん中でこれからも、広く深い見識をもって陶芸巨匠の名品の美を紹介しつつ、まだ見ぬ陶芸の新しい世界を開拓していきます。
(佐野由佳)