日本の天目のこと
日本の天目のこと
- はじめに -
現代の日本では、おもに「曜変天目」「油滴天目」「禾目天目」「木の葉天目」「玳皮天目」の五種類の茶碗を総称して「天目」もしくは「天目茶碗」と呼ばれています。他に「灰被天目」「柿天目」「兎毫盞」「烏盞」「星天目」など古くから伝わる名称も存在しますが一般的ではなく、専門用語として使われており、美術館図録などで目にする程度になっています。
天目を制作する陶芸家のことを「天目作家」と呼び、天目作家のほとんどが「曜変天目」を最高位として位置づけ、その再現を目標として日々の研究を重ねながら、それぞれが独自の「天目」の制作を続けています。
- 日本の天目の起源 -
12世紀以降に中国の建窯を中心に作られた天目茶碗は、鎌倉時代(13世紀の初め)に喫茶の風習が伝えられると共に日本に輸入され各地の禅宗の寺院で儀式などに用いられていました。その後、喫茶の風習が武家にまで広まったことで天目茶碗の需要が増え、それを補うために、鎌倉時代末期(14世紀初め)に、愛知県瀬戸で日本の天目茶碗が作られ始めました。
桃山時代(16世紀)になり、千 利休(1522~1591)が「茶の湯」を大成して、日本独自の喫茶文化が確立したことにより、使用される茶碗の種類が多様化して、天目茶碗の製造は次第に減少してゆきました。江戸時代(17世紀中頃)には、京都の野々村仁清が、個人作家として初めて天目茶碗を制作しました。
- 大国へのあこがれ -
明治時代(1800年代)~昭和時代初め(1930年頃)、日本では中国趣味が流行し、実業家・財閥家による陶磁器などの中国の美術品の蒐集が盛んに行われていました。
現在、国宝に指定されている曜変天目茶碗(静嘉堂文庫美術館・所蔵)が、1918年(大正7年)に東京で行われたオークションに出品され、当時の日本国内最高額で落札された他、現在、国宝や重要文化財に指定されている陶磁器や宋元時代の絵画や書など多くの中国美術品が高額で取引きされた時代でした。
- 河井寛次郎と石黒宗麿 -
昭和時代(20世紀)以降の日本の天目のキーパーソンには、河井寛次郎(1890~1966)と石黒宗麿(1893~1971)の二人の偉大な陶芸家が挙げられます。
島根県生まれの河井寛次郎が、京都で陶芸家として活動し始めたのが1915年で、中国趣味の時代と重なり、当時の京都の陶芸家や陶工は、需要の高かった中国陶磁器の倣作品の技術を競い合っていた時代でした。河井は、卓抜した技術と天才的な感覚で、青瓷や天目・辰砂・三彩などを見事に再現し、さらに確かな作陶技術に裏付けられた独創的な作品も制作し、まだ20歳代後半の若手作家にも関わらず、大きな名声を得てスターダムにのし上がりました。特に河井は、釉薬の研究に成果を上げ、天目などの釉薬の基礎を作り、その後の陶芸家は、河井がつくりあげた天目釉の調合を基本にしています。
富山県生まれの石黒宗麿は、1918年に東京で偶然立ち寄ったオークションの下見会で、曜変天目茶碗を目にします。その神秘的な美しさに深く感動し、「これが人の手によるものならば、自分も作ってみよう」と25歳で陶芸家を志し、陶芸修業などで各地を転々とした後、34歳の時、京都に工房を構えて、曜変天目の再現を目指し本格的に陶芸家としてスタートしました。石黒宗麿は「曜変天目は、窯の中の偶然によって現れたのではない」と設定し、最新の窯業・化学技術を駆使して曜変天目の再現を試みました。結果的に曜変天目の再現の夢は果たせませんでしたが、木の葉天目の忠実再現を含めた天目釉の永年の研究により「鉄釉陶器」の国指定重要無形文化財(人間国宝)にまで登りつめました。名作の数々を残しつつ、後進の指導にも熱心にあたり、その結果として、天目作家が京都を中心に全国で生まれてゆくことになりました。
- 戦後日本の天目 -
河井寛次郎と石黒宗麿が作り上げた現代日本の天目は、1950年代以降、京都を中心に瀬戸や有田などの窯業地で活動する陶芸家たちも作るようになり、天目釉から変化した黒釉や鉄釉も流行し、茶碗だけでなく花器や食器など多様化してゆきました。
石黒宗麿に指導を受けた清水卯一(1926~2004)が、この時代の天目を先導し、戦後復興の経済発展による好景気の追い風もあり、青木龍山(有田)・木村盛和(京都)・加藤孝俊(瀬戸)・鎌田幸二(京都)・初代 長江惣吉(瀬戸)など多くの陶芸家が各地で多様な天目作品を作り活躍していました。しかし、栄華を誇っていた日本の陶芸界は、1990年代になると日本経済の低迷により失速。茶道の衰退も始まり、天目作家は苦境に立たされ、天目だけでなく他種の作品も手掛けるようになってゆきました。現在では、天目だけを作る陶芸家は少なくなってきています。
- 曜変天目の再現 -
21世紀になり日本の陶芸界は新しい局面を迎え、古陶磁の再現を目指す指向が強くなってゆきます。桃山時代の志野・織部・黄瀬戸・唐津や、李氏朝鮮時代の井戸茶碗や高麗茶碗、備前・信楽などの古陶を忠実に再現する陶芸家が現れました。
天目作家は、曜変天目の再現に特化するようになってゆきます。林 恭助(1962~ )や長江惣吉(1963~ )、瀬戸毅己(1958~ )、桶谷 寧(1968~ )などが、それぞれの独自の技法で、静嘉堂文庫美術館の国宝・曜変天目茶碗の再現を試みています。
林や長江、瀬戸の三人は、石黒宗麿が近代の窯業・化学技術を駆使して曜変天目の再現を試みたように最新技術を導入しているのに対し、桶谷は中国・南宋時代の古代の技術・技法を探求しその解明を続け、数千・数万点の中から究極の1点を取りあげるという中国・南宋時代の制作方法に着目し、ついには最も困難と云われていた曜変天目の再現に成功しています。
- 天目の未来 -
桶谷 寧が成功した曜変天目の再現は、コレクターに大きなインパクトを与えました。
日本の天目の未来は、究極の一碗を求めるようになった国内外のコレクターの確かな審美眼が担っています。
中国・南宋時代に作られた日本の国宝・曜変天目茶碗(静嘉堂文庫美術館藏)・油滴天目茶碗(大阪東洋陶磁美術館藏)を超越するものを作れる陶芸家が現れることを待つしかありません。
石黒宗麿 木の葉天目碗
桶谷 寧 曜変天目茶碗
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