陶心陶語

小山冨士夫 油滴白覆輪酒觴のこと

 

世界的に名の知られた東洋陶磁の研究者・学者であった小山冨士夫は、若年期に陶磁器に出会ったことで陶芸家を志し、瀬戸や京都で陶芸修行した後に、昭和元年・26歳の時に京都・東山で作陶活動を開始。作陶に勤しみ、百貨店などで個展やグループ展を開き陶芸家としての活動をしていた小山でしたが、挫折。30歳を迎える頃、古陶磁の研究者への道を歩むことを決め、轆轤を捨て、東京に戻りました。その後、古陶磁研究の先達の知遇を得て、文部省の嘱託になり、さらに活動の幅を広げ、文筆活動も積極的に行った。戦時下に強行した中国各地の古窯址調査で小山のもっとも偉大な功績として讃えられる中国宋時代の白瓷で知られる「定窯」古窯址を発見。戦後になり、東京国立博物館に勤務、のちに文化財保護委員会の調査官になり国宝や重要文化財の指定などに携わりました。
昭和36(1961)年、贋作を重要文化財に誤って指定した責を認め、公職を辞任するが、小山の才能と実績を惜しむ多くの人々の支援を受け、民間主導で文筆活動や研究活動を続けることになる。その活動のさなか、作陶をする機会があり、若き頃に志した陶芸家への想いが燃え上がった。
各地を巡り、その先で轆轤に向かう。小山の知名度は抜群で、唐津・萩・備前・丹波・京都・信楽・瀬戸・美濃などで滞在し場を借り作陶をしていた。
昭和41年・68歳の時、鎌倉・二階堂の自宅の一隅に窯と工房を構え、作陶を本格化する。青年時代に志した陶芸の道を多くの変遷を経て、古稀を目前に実現することになりました。
この作品は、自らの工房を構えた昭和41年の作品で、箱書きのとおり、試行錯誤の賜物であることが解ります。
中国・金時代(13世紀)の代表的な油滴白覆輪を模して作陶したもので、共箱に「試作」と箱書きがあるように、また小山としては珍しく朱の落款が押されており、それまでの中国古陶磁研究の変遷の集大成として日夜研究していたものと推測できます。試作ゆえに、作品に窯印がありませんが、小山冨士夫の中国陶磁への想いのたけをぶつけるべく作られた一品です。
漆黒の黒釉には油滴が現れており、小山氏の窯出しの際の歓喜の笑顔を想像するのは私だけではないはずです。

 

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