加守田章二先生の最晩年期を飾った釉彩シリーズのぐい呑です。
白い磁土を用い、藍・緑・黒の釉薬を使い器体全面に菱形状の模様で釉彩を施しています。
このぐい呑は轆轤成形で作られており、全体に薄造りで口辺は極めてシャープな造形で、高台も美的に仕上がっています。
色彩の美しさとともに、加守田先生の見事な轆轤技術をうかがえる一品です。
高台にサインがあります。
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【 作品番号 : 581 ]
加守田章二 | Kamoda Shoji
1933
大阪府岸和田市に生まれる
1952
京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学
1956
京都市立美術大学卒業。茨城日立に移り製陶所に勤務
1959
栃木県益子に移り制作を開始
1962
穴窯での灰釉作品の制作が始まる
1965
灰釉作品が注目される
1966
日本陶磁協会賞を受賞
1967
高村光太郎賞を受賞
1969
岩手県遠野に移り、その後作品は毎年変化していく
1970
[曲線彫文]を発表
1971
[彩色]を発表
1974
[陶板展](銀座 黒田陶苑)以後毎年出品
1979
東京東久留米に工房を移す
1983
逝去(享年49歳)
加守田章二 盃 のこと
大阪・岸和田で生まれ、画家を志し入学した京都美大で陶芸に触れ、教授だった富本憲吉の指導を授かったことで、陶芸家を目指すことになった加守田章二。
陶芸家への夢を持ちつつ、生計を立てるため、美大卒業後には茨城日立の製陶所に職人として勤めていたこともありました。
ほどなく、濱田庄司が築き上げた陶芸王国・栃木益子に乗りこみ独立、制作活動を開始したのは1959年、26歳の時でした。
実質的な師を持たない加守田は、王国・益子の地において異種異風の「灰釉」の作品を手がけ、次第に異色作家として頭角を現し、加守田が32歳頃の1960年代中頃には、すでにその名は、中央にも知られるようになっていた。
34歳の時に「高村光太郎賞」を受賞し、若き天才現るとして一躍、美術界で注目を浴びることになった加守田は、自身の周辺が騒がしくなったことを疎み、静かな制作環境を求め、10年を過ごした栃木県益子から岩手県遠野へ制作拠点を移したのである。
その新天地・遠野で、加守田の代表作の多くが作られるが、10年を経た1979年には、制作拠点を東京西部の東久留米に移している。
東京での制作活動は、益子と東久留米の両方の工房を使い胎土や釉薬・上絵など多種多様な技法や原料を使い分け、明るく色彩豊かな作風へと変化してゆきました。
この「盃」は、轆轤引きした半磁の白い胎土に、紺・緑・黒の三色の釉彩で、菱形の模様が付けられ、口元は加守田らしい切れるようなシャープな造形で仕上げています。
この菱形のデザインは、親交が深かった油画家・有元利夫(1946‐1985)の絵にヒントを得たもので、加守田の時代を読む鋭い感性を表していると思います。
類例が極端に少ない、実用的かつ美的な一品です。
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