Kawakita Handeishi
川喜田半泥子 錦絵「お竹大日」
h46.3×w26.8cm 1933年 [Sold]
昭和8年(1933年)に制作された作品で、川喜田半泥子が原画を描き、それを木版にした版画「錦絵」です。
この錦絵は、裏面に「大傳馬町川喜田木綿店 開店三百年記念 錦絵 三百枚之内 第二百四十五号」とあり、半泥子生家の家業であった繊維問屋の創業300年を記念して作られたものです。
画面左下には、「昭和八年七月 紺野浦二」と、その下に菱形囲いに「久」の印があります。
紺野浦二(こんの うらじ)は、ペンネームで、「紺の裏地」の洒落で名付けたものです。「久」は家督「久太夫政令」の頭文字。
画面右上に「大傳馬町一丁目 お竹大日」と題名されています。
お竹大日は、江戸時代に東京日本橋大伝馬町に実在した「お竹さん」という美人・聡明で働き者の女性でしたが、のちに大日如来の化身として崇められるようになり、「於竹大日如来」信仰として現在まで伝わっています。大傳馬町に川喜田木綿店があったことから、半泥子はこの題材を選んだと推測いたします。
当時、300点摺られた錦絵ですが、現存する数はかなり限定的で稀少です。また、残存する作品の中でも、状態の良いものは多くありません。
この作品は、奇跡的に色彩や紙が良い状態で残されています。
額の外寸サイズは、幅31.6×縦51.1㎝になっています。
下女お竹の事
下女お竹は、寛永の頃、江戸大傳馬町佐久間某・・、一説に馬込某・・の家に使われて居た者です。
日常の行ひが正しく、殊に陰徳を積む事が多くて、お米をといだり、菜葉を切っても少しの捨てたりないようにと、流シ場の水のハケくちに、袋をつけておきまして、之れに残ったとぎ流れのお米や、野菜は自分が頂いて、自分に貰う御飯や、お菜は、貧しい人達に施していたそうです。
すると或る時、此家へ、羽後羽黒山の行者が、訪ねて来て、「私は羽黒山の修行者ですが、何卒現身の大日如来をおがまして頂きたい、と願を掛けますと、江戸大傳馬町佐久間の下女お竹を、おがめと、夢のお告がありました。お宅にお竹さんといふ女中さんがいらっしゃるなら、おがまして頂きたい」といひました。
之を聞いて佐久間夫婦は不思議に思ひましたが、「如何にもお竹といふ、大層心掛のイイ女中が居ます。左様の事ならば呼んでまいりましょう」と臺所に行って見升と、お竹の身体から、金色の御光がさして居て、彼是するうちに、紫の雲に乗って天上しましたといふ、傳説があり升。
現に芝の心光院といって、俗に赤門寺といふお寺には、お竹の木像だの、お竹の使った流シ板だの、お竹大日如来に信仰の厚かった徳川大奥の桂昌院が納められた、立派な蒔繪の手文庫などがあり升。
此傳説の真偽の程は分りかねますが、私の木綿店が、此大傳馬町で、矢張お竹さんと同時代の、寛永年間から永續しまして、今年三百年になりましたので、記念の為に大傳馬史といったよふなものを書いて見ました折ですから、此「傳説のお竹さん」に、敬意を表しまして、例の私の道樂気から、生れて初めて、錦繪といふものを描いて見たのです。
しろうとの、殊に初めての試みで、どんなものが出来るかと思ひましたが、幸ひ落合直成さんの御紹介で、渡邊庄三郎さんに、商賣気離れてのお骨折を掛けたものですから、これでも私自身としては、思ったよりイイものが出来たと、嬉しくて仕様がないので、御懇意の方々に、おしつけてお納めをお願ひするのです。
昭和九年 初春
半泥子こと 紺野浦二
(原文ママ)
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川喜田半泥子 | Kawakita Handeishi
1878 大阪市で生まれる (本名・善太郎)
1979 家督相続し、16代川喜田久太夫政令を襲名
1903 百五銀行取締役に就任
1910 三重県議会議員に選出
1912 趣味として作陶をはじめる
1919 百五銀行頭取に就任
1925 三重県津市千歳山に窯を築き、作陶を本格化させる
1934 工房を「泥仏堂」と名付け、号としても用いる
1942 からひね会を発足し金重陶陽・三輪休和・荒川豊蔵らを指導
1946 千歳山から津市廣永に移り、製陶所「広永陶苑」を創設
1957 傘壽記念半泥子翁八十賀百碗譜を刊行
1963 逝去(享年84歳)
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