本日の一品

Mineo Okabe

岡部嶺男 粉青盃

h5.9×w8.0cm 1967年 共箱  Sold

岡部嶺男 粉青盃

 

 

岡部嶺男 粉青盃のこと

「土の芸術として最後の姿が青瓷として現れた」
陶芸界の鬼才と呼ばれた岡部嶺男は、加藤唐九郎の長男として愛知県瀬戸市に生れます。
幼い頃から陶器に触れていた嶺男は、高校時代には製陶法や轆轤技術はすでに習熟しており、卒業の頃には教師よりも卓抜した技量を備えるまでになっていた。在学中に習作した黄瀬戸や織部は、桃山時代の古陶と遜色なくできあがっていました。
戦後、昭和二十二年頃から本格的に陶芸家として活動を始めた嶺男は、志野・織部・古瀬戸などの伝統的な技法を用いて斬新な作品を発表し注目を浴び、一躍人気作家となった。昭和三十七年、嶺男四十三歳の頃「青瓷」の研究を始めることになる。それは窯での焼成の際に、ある偶然が引き起こした窯変から始まったのであるが、天性の才能と人並みはずれた努力の賜物として、四十六歳で紺綬褒章を受章するころにはすでに「青瓷」は完成を見て、さらに進化させた「粉青瓷二重貫入」を世に問うことになり、当時の皇居正殿梅の間に粉青大花瓶一対を納める栄誉も得たのである。
この作品は、嶺男が苦心の末に完成させた粉青瓷二重貫入のぐい呑である。
氷裂貫入とも呼ばれる美しいその釉薬は、中国南宋時代の青瓷を凌駕するとも謂われたほどの清冽で高雅な美を纏っています。
見込を覗き込めば吸いこまれるように見入ることになり、その美は、宝石の輝きにも似ています。

 


 

岡部嶺男 おかべみねお

1919 愛知県瀬戸市に生まれる(加藤唐九郎の長男)
1938 東京理科大学に入学
1940 大学を中退し入営。各地を転戦
1945 敗戦後、捕虜となる
1947 復員。愛知県豊田市平戸橋に移る
    作陶を再開する
1954 日展北斗賞を受賞
1962 青瓷を始める
1965 紺綬褒章を受章
1968 愛知県日進に移る
1970 窯変米色瓷が完成
1978 病に倒れ半身不随になる。加藤から岡部に改姓
1989 再起新作展を開催し新作を発表
1990 逝去(享年70歳)
2011 没後20年回顧展[宿命-岡部嶺男展](銀座 黒田陶苑)

 Mineo OKABE [Sake cup, Funsei-hai]


 

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