本日の一品

Kamoda Shoji

加守田章二 曲線彫文壷

w27.8×d27.0×h17.2cm 1970年  共箱 [Sold]

加守田章二 曲線彫文壷

 

曲線彫文と遠野と

百年余前、1909(明治42)年盛夏、柳田國男は、はじめて遠野を訪れた。
遠野の地に古くから伝承されてきた民話を集めた名著「遠野物語」上梓の前年のことであった。

加守田章二先生が、遠野を訪れたのは、1967(昭和42)年初冬。高村光太郎賞の受賞により、身辺が騒がしくなり、落ち着いた制作環境を探し求めていたころである。

34歳の加守田は、はじめて訪れた遠野を気に入り、工房用地を遠野市青笹町踊鹿(おどろか)に決め、すぐに土地を取得購入したという。しかし、その地は利便性や住環境を無視した、とても辺鄙な場所。

遠野物語の序文で印象的に登場する「しし踊り」は、鹿の面を被って舞う遠野の民俗芸能で「鹿踊り」と表記されることもある。加守田があえて辺鄙な場所である「踊鹿」に土地を決めたのは、この地名の響きによるものだったのではないだろうか。

1970(昭和45)年に、高島屋美術画廊(東京・日本橋)で発表した「曲線彫文」の作品は、遠野の土を使って作られた。全面に波状の線彫りが施され、器面自体の凹凸も加わり見るものに強い印象を与え、威容を誇る。加守田作品の中でも、特に名作として名高いもので、国内外で評価され、今ではそのほとんどが美術館に収蔵されている。

民話の郷・遠野に残る木造建築には、永い歳月の風雪にさらされ、木質が変化して年輪部分が浮き出しているものが多く見受けられる。朽ちかけた鳥居などには、過酷な気象を想像するが、民間信仰のシンボルとして遠野の風景に溶け込んでいる。こうした風景を加守田は愛したに違いないだろう。

1969(昭和44)年に、加守田が遠野に移って最初に手掛けた「曲線彫文」は、このような遠野の風景のいたるところにある木造建築の「木目」に由来している。特に、早池峰山古参道の鳥居や常堅寺の仁王像の木目は印象的であり、部分的に見れば「曲線彫文」そのものに見えてしまうのは、私だけではないだろう。

遠野物語の世界にあこがれて移り住み、遠野の風景を作品に取り入れた加守田章二。「曲線彫文」は、加守田によって綴られた遠野物語なのだ。

黒田佳雄


 


遠野・常堅寺の山門と仁王像

 


遠野・常堅寺の山門・仁王像(部分拡大)

 


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加守田章二 | Kamoda Shoji

1933
大阪府岸和田市に生まれる
1952
京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学
1956
京都市立美術大学卒業。茨城日立に移り製陶所に勤務
1959
栃木県益子に移り制作を開始
1962
穴窯での灰釉作品の制作が始まる
1965
灰釉作品が注目される
1966
日本陶磁協会賞を受賞
1967
高村光太郎賞を受賞
1969
岩手県遠野に移り、その後作品は毎年変化していく
1970
[曲線彫文]を発表
1971
[彩色]を発表
1974
[陶板展](銀座 黒田陶苑)以後毎年出品
1979
東京東久留米に工房を移す
1983
逝去(享年49歳)

 


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