現代陶芸の鬼才と呼ばれた加守田章二は大阪岸和田に生れ、京都市立美術大学では富本憲吉の薫陶をうけ、卒業後、茨城日立の製陶所勤務を経て、学生時代からの憧れの地でありかねてからの念願であった陶郷・益子での作陶活動を開始しました。
この陶芸家としての出発は、1959年の春のことで、1969年に岩手遠野に移るまでの10年余り、益子を制作の拠点としていました。その益子時代の作風は「灰釉陶器」を中心とし、古代土器・須恵器・中世の古陶などを意識したものが多く、それは加守田が原始と現代とのゆるやかな調和を自らの表現の目標にしたことに由来いたします。特に、加守田の益子時代中期(1965年頃)の作品のなかに、濃緑色の灰釉が掛けられたものがあり、それらは中世の猿投や常滑などにルーツを見ることができます。
この一連の作品の世評により加守田章二は、一躍脚光を浴び、「至上最高の灰釉」とも絶賛され、当時の日本の美術界において栄誉ある高村光太郎賞の受賞へと結実してゆきました。
この作品は、加守田の灰釉作品の特徴が随所に見てとれる美しい球形の壺です。
轆轤成形し素焼きの後、灰釉を施し、半地下式穴窯で強
火力焼成する手法は、当時は実験的なことでもあり、失敗や完成を見ない作品が多く存在しましたが、この作品は、加守田が理想としたものに仕上がっています。
壺の肩部から流れた濃緑色の灰釉が古風ですが、美しい造形の壺に協調し、古めかしさが排除された現代的で新鮮な強さが作品を支配している一品です。