清水志郎 酒器展

 

このたび黒田陶苑では、清水志郎酒器展を開催いたします。
清水さんの轆轤のしごとは、柔らかい土の持ち味を活かしつつもエッジを効かせ繊細な妙味とふてぶてしさの醍醐味を併せ持つという近代稀にみる仕業を見せてくれています。
今回の酒器展では、清水さんのしごとぶりを存分に楽しめる展観になると思っております。
ぜひご高覧くださいますようご案内申しあげます。     黒田佳雄

 

 


 

 


銀彩徳利 + 引出黒ぐい呑

 

 

 


ぐい呑 2種

 

 

 

 


 

 


清水志郎 Shiro Shimizu

1979 京都市東山生まれ
    父は清水保孝、祖父に清水卯一
1998 京都精華大学卒業
2002 祖父・卯一の指導をうける
2005 父・保孝の指導をうける
2010 京都の土に興味を持つ
2012 窯を作る
2014 自ら掘った土で制作を始める
2016 第一回黒田陶苑 個展

 

 

 

 


 

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松井康成 萃瓷練上酒呑

 

練上技法を極めた人間国宝・松井康成の最晩年に数点のみ制作された萃瓷練上のぐい呑です。他のぐい呑作品に比べて一回り以上大きいサイズを誇るこの作品には、梅花模様の練り上げが美しく表されており、エッジを強調した口縁部にも見どころがあります。他には見ることができない松井康成のぐい呑の逸品です。

 


 

松井康成 まついこうせい

1927 長野県に生まれる
1955 田村耕一に師事
1973 [現代工芸の鳥撤展]に招待出品
1980 [現代陶芸百選展]招待出品
1988 紫綬褒章を受章
1992 松井康成陶筥展  (銀座 黒田陶苑)
1993 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
2003 逝去 (享年77歳)

荒川豊藏 志野酒盃のこと

 

人間国宝・荒川豊藏は、91歳の天寿を全うする直前まで、精力的に制作に勤しんだ陶芸家でした。特に、77歳で文化勲章を受章したのちには、唐津や萩、丹波、備前、信楽などの窯業地を巡っては、その地を代表する陶芸家のもとで作陶するということをしていました。
轆轤だけでなく、時には、自らが土を掘ることもあったといい、作陶への執念を燃やし続けていました。
そういったこともあり、荒川豊藏が永年に渡り使用し、多くの名碗を作り上げていた穴窯は、晩年期には、使われなくなり、志野も登窯で焼かれるようになってゆきました。
この作品は、荒川豊藏の最晩年期のぐい呑です。
昭和40年(1960年代後半)頃までのぐい呑は、桃山陶を意識した古典的な形状の小ぶりのものや平形を作っていた豊藏は、昭和45年(1970年)頃から一転して大きなものを作り始めます。
それは、その時代の最大のライバルであった加藤唐九郎の作りだす大振りな作品へのコレクターの注目度が高まっていたことに由来するといってよいでしょう。
抹茶茶碗をそのまま小さくした形状で大振りというこの作品は、荒川豊藏の最晩年のぐい呑の特徴を顕著に表しています。

 

荒川豊藏 志野酒盃

 

 

人間国宝・荒川豊藏は、91歳の天寿を全うする直前まで、精力的に制作に勤しんだ陶芸家でした。
特に、77歳で文化勲章を受章したのちには、唐津や萩、丹波、備前、信楽などの窯業地を巡っては、その地を代表する陶芸家のもとで作陶するということをしていました。轆轤だけでなく、時には、自らが土を掘ることもあったといい、作陶への執念を燃やし続けていました。
そういったこともあり、荒川豊藏が永年に渡り使用し、多くの名碗を作り上げていた穴窯は、晩年期には使われなくなり、志野も登窯で焼かれるようになってゆきました。
この作品は、荒川豊藏の最晩年期のぐい呑です。昭和40年(1960年代後半)頃までのぐい呑は、桃山陶を意識した古典的な形状の小ぶりのものや平形を作っていた豊藏は、昭和45年(1970年)以降から一転して大きなものを作り始めます。
それは、その時代の最大のライバルであった加藤唐九郎の作りだす大振りな作品へのコレクターの注目度が高まっていたことに由来するといってよいでしょう。
茶碗をそのまま小さくした形状で大振りというこの作品は、荒川豊藏の最晩年のぐい呑の特徴を顕著に表しています。

 

 


 

荒川豊蔵 あらかわとよぞう

1894 岐阜県多治見に生まれる
1922 京都に移り、宮永東山窯の工場長を務める
         北大路魯山人に出会う
1927 鎌倉に移り、魯山人の星岡窯に勤務
1933 星岡窯を辞し、美濃大萱牟田洞に移り作品制作を始める
1941 初個展(梅田阪急・当苑主催)
1946 多治見・虎渓山に食器製造目的の水月窯を創設
1955 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1960 宗達下絵光悦筆[三十六歌仙和歌巻](重要文化財)を購入
1971 文化勲章を受章
1977 随筆集[縁に随う]刊行
1985 逝去(享年91歳)


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古谷和也 個展 -穴窯への想い-

 

このたび黒田陶苑では、信楽焼の古谷和也さんの個展を開催いたします。
古谷さんの代名詞にもなっている穴窯は、単純な構造で作られているがゆえに焼成がとても難しいとされています。
その難解な穴窯と向き合い研究を重ねている古谷さんは、勤勉実直の姿勢にてこだわ
りの信楽を実践。
隔年開催の黒田陶苑の個展では、毎回、丸二年の実績を発表してきました。
今回の新作展は、信楽の土の魅力を多方面からとらえた作品が加わり、伝統
の壺や蹲には円熟味を押し出してきました。
想いの籠った特別の穴窯から出たばかりの新作にご期待ください。
掲載作品以外にも多数出品されますので、ぜひ会場でご高覧くださいます
ようご案内申しあげます。

 

 


 

 


信楽窯変壺

 

 

 

 


信楽茶碗

 

 

 

 


信楽徳利(左)・伊賀徳利(右)

 

 

 

 

 


信楽角花入

 

 

 

 


 

 

 

古谷和也 Furutani Kazuya

1976年   滋賀県信楽町出身
1997年   山口芸術短期大学卒業
1998年   京都府立陶工技術専門校卒業
      父・古谷道生に師事
2004年        黒田陶苑第1回個展(以降、隔年開催)

 

 

 

 


 

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新発見の石黒宗麿「木の葉天目茶碗」

 

石黒宗麿没後50年の今年、石黒宗麿の旧工房から「木の葉天目茶碗」が新発見されました。
その茶碗は、石黒が使用していた登り窯の内部に保管されていたサヤと呼ばれる焼成用ケース(画像:窯の右側に放置されているものと同じもの)に入った状態で、高台にはハマと呼ばれる溶着を防ぐ粘土塊が付いたまま見つかりました。このことから、窯出しされていない手つかずの状態で50年以上を経過していたと判断されました。作者である石黒先生さえも見ていない、誰も見たことがなかった木の葉天目茶碗がまるでタイムスリップしたかのように、没後50年の節目の年に窯出しされたということで、お披露目の展覧会をすることになりました。
詳しくは、京都精華大学のウエブサイト 
http://www.kyoto-seika.ac.jp/…/info/topics/2018/11/22/51063/
http://www.kyoto-seika.ac.jp/…/…/2018/1214ishiguro/index.php 
をご覧ください。
画像は、石黒宗麿が生前使用していた登り窯です。京式登り窯と呼ばれる形式の特徴があるもので、四室の焼成室があります。木の葉天目茶碗は、この登り窯の2番目の焼成室に仕舞われていたサヤの中にありました。なぜ、そこにあったのかは謎めきますが、当時の窯出しの際のケアレスミスによって出し忘れていたと私は想像し考えています。
現在は測量調査が進み全体像が見えていますが、調査開始当初はこのように登り窯の手前部分・胴木間(どうぎま)と呼ばれる燃焼室部分の半分以上が土砂に埋まっていました。
どうして埋まっているかというと、窯のすぐ横に古くからの沢があり、沢の流れが石黒没後のある時大雨により鉄砲水となり、大量の土砂が窯場周辺に流れ込んだためなのです。
この窯の周辺の土砂の中から、今まで知られていなかった石黒宗麿の制作に関する事実も発見されています。
今回の一連の発見について思うことは、石黒宗麿の現代性です。常に新しいものごとを考え、新しいものごとに挑戦してゆく創作創造の姿がリアルに感じられました。50年以上前に、今よりも斬新で奇抜な思考・手段をもって、新しきを求めていた事実を再認識し、石黒宗麿その人と作品に今まで以上に興味が湧いてまいりました。

 

北大路魯山人 志野茶碗のこと

 

魯山人先生は、志野茶碗の制作を1940年代の戦争期を挟み死期直前までおよそ20年の間、手がけていました。
最初の時期は、古典に倣い白いモグサ土を使用し、形状も半筒形としていましたが、後半の特に戦後期には、独自の概念でもって信楽土を多用し、古典とは趣を異にする一味ふた味も違う志野焼を作り上げてゆきました。
この作品は、1940年代後半の作品で、魯山人が所有していた本阿弥光悦の茶碗の形を取り入れて作られています。ふくよかで美しいアールを持つこの茶碗は、やや大振りに作られ、口縁部や腰部、高台回りに赤味の強い緋色が現れて見ごたえがあります。
魯山人が試行錯誤しながら今までにない概念で作り上げた志野焼が出現すると、評論家をはじめ、茶道家・美術関係等各方面から大バッシングが巻き起こります。しかし、後継の陶芸家の加藤唐九郎や荒川豊藏らは、魯山人志野の特徴といえる赤味の強い志野焼を追いかけてゆくことになります。
特に荒川豊藏は、師匠でもある魯山人の影響を強く受けて、茶碗の形状自体も魯山人のこの形を取り入れました。
魯山人が考え出した赤い志野焼「紅志野」は、のちにスタンダードとなり、志野茶碗としては異風な形状についても、荒川豊藏が引用し多作したことで、志野茶碗の基本形状として確立されました。
魯山人のすごさというのは、残された名作の数々云々でもありますが、このように新しい風潮を巻き起こし、新しい文化を作ってしまう深い洞察力や美を想う迫力をもっていたということに尽きると思っています。
この作品は、現代志野茶碗のルーツとして存在します。