石黒宗麿 詩文茶碗

 

石黒宗麿 詩文茶碗のこと

戦後日本の陶芸巨匠の代表格で、鉄釉陶器の高い技術から日本国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された石黒宗麿先生は、25歳の時に東京で初めて見た国宝の曜変天目茶碗を見て感動し、自分で作りたいと思い立ちすぐに陶芸家を志しました。
大正末期から昭和初期の激動の時代の真っただ中に、東京・埼玉・福島・金沢・佐賀・実家のある富山など転居を重ねて、昭和3年に辿り着くように京都東山に移りました。
その京都東山で本格的に作陶を始めた石黒先生は、中国や韓国の古陶磁の倣作を主に手掛け、そののち昭和10(1935)年には、最晩年まで制作と生活の拠点とした京都八瀬に移りました。洛北八瀬に移った石黒先生は、それを契機に独創的な作品を手掛けるようになり、また漢文での詩作を始めるようになりました。42歳頃のことでした。

この詩文茶碗は、石黒宗麿の陶芸史においてとても貴重な作品です。
石黒宗麿は、壷や花入などに漢詩を書く作品は作りましたが、このように茶碗に詩文を書きいれたものは稀少で、実際に過去の回顧展図録にもこのような詩文茶碗の所載は見当たりません。

欲説不可説
擬知不可知
陶法何多緒
我亦老而疲

陶芸制作は様々な製法がありなんともたいへんである。
知れば知るほど説明することすら難しく、知識を重ねて
研究を重ねてもいまだよくわからない。
そうしている間にいつのまにか私は老い、そして疲れ
果ててしまった。


この茶碗に書かれている石黒宗麿先生の有名な漢詩は、亡くなる直前の最晩年期に作られた詩であると今まで認知されてきましたが、この作品「詩文茶碗」の発見により、年齢的にはまだ若い頃の詩であること、そしてさらには詩作を始めて間もない頃のものであることが、明らかになりました。

一昨年、我々もお手伝いした石黒宗麿・八瀬陶窯址の発掘調査の際に発見された「木の葉天目茶碗」が石黒の陶芸史上での新発見の作品だったことにしても、未知の部分が非常に多い陶芸家です。
この作品を初見した際には鳥肌が立つような感動を覚えました。それは、石黒宗麿先生の作陶のターニングポイントになった作品のように感じたからでした。
勤勉実直を想う漢詩の刻文、そして大きく豊かにがっしりと作られたこの茶碗は、石黒宗麿の人間性そのものが露呈しているようであります。

「詩文茶碗 宗麿造」と記された八瀬陶窯初期の特徴的な箱書きのある共箱に入っています。二重箱仕様。
高台内に八瀬陶窯初期作品特有の印サインがあります。


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石黒宗麿 いしぐろむねまろ Munemaro Ishiguro

1893   富山県新湊に生まれる
1918   国宝・曜変天目茶碗を見て感動し、陶芸家を志す
1919   東京で陶芸制作を始める。その後各地に転居を繰り返す
1927   京都東山蛇ヶ谷に移る。盟友となる小山冨士夫を知る
1935   京都洛北八瀬に窯を築く
1937   パリ万国博覧会に出品し銀賞受賞
1941   [石黒宗麿作陶展観](銀座 黒田陶苑)
1955   重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
           荒川豊蔵、加藤唐九郎らと[日本工芸会]を結成
1963   紫綬褒章を受章
1968   逝去(享年75歳)

北大路魯山人 紫地菊花画皿

北大路魯山人 紫地菊花画皿

北大路魯山人先生が石川加賀で制作した九谷色絵の中皿で、90年以上前の作品です。
菊花文や波涛文などの地模様が繊細に描かれてはいますが、赤・紫・黄・緑の四色の色絵で構成された器面は圧倒的な迫力に満ちています。裏面には、上質な朱赤をべったりと塗り付けてあり見どころが多い作品になっています。
現在の感覚で見ても目新しく斬新な作品で、魯山人先生の革新的な芸術性が凝縮されたうつわです。
緑と黒の色絵を使ったサインと印サインのダブルネームが高台内にあります。
共箱は90年を超える経年のしみなどが目立ちますが、オリジナル状態を保っております。

 


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【 作品番号 : 577 】

 


北大路魯山人 | Kitaoji Rosanjin

1883
京都市北区上賀茂北大路町に生まれる
1907
東京で書家として活動を始めるが挫折し放浪
1916
挫折し、韓国・中国・滋賀・福井・金沢など放浪し京都へ戻る
1919
東京で美術骨董店を開業
1921
骨董店の顧客を対象に、自らの料理を供する「美食倶楽部」を始める
1923
美食倶楽部で使用する食器の外注制作を始める
1925
料亭「星岡茶寮」を経営
1928
星岡茶寮の食器を製作するための製陶所「星岡窯」を鎌倉に設ける
その後、百貨店や茶寮などで作品即売会を催し評判を呼ぶ
1935
陶芸創作に専念するようになる
1936
星岡茶寮の経営から離れる
1937
北大路魯山人新作展(弊社主催)
1939
この頃「星岡窯」は50名余が従事し活況を呈する
1942
戦時下、石川に疎開し漆芸作品などを制作
1954
ロックフェラー財団の招聘によりニューヨークなどで個展を開催
アメリカ・ヨーロッパなどを歴訪
1955
重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退
1956
東京・京都・名古屋などで盛んに個展を開催する
1959
逝去(享年77歳)

 


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陶藝逸品展ウエブカタログ

 

10月に開催する銀座 黒田陶苑恒例の秋の特別展「陶藝逸品展」のウエブカタログを公開いたしました。

事前のご内覧を承っております。
お気軽にお申しつけください。

展覧会ではウエブカタログに掲載している作品以外にも、展示いたします。

 


 

 

 


 銀座 黒田陶苑アネックス は、
ギンザ・シックス [GSIX] の真裏の三原通りに面する銀緑館の2階にあります。
ご来店を心よりお待ちいたしております。


銀緑館前の三原通りには、パーキングメーターの駐車スペース(1時間300円)が多数設置されています。
また、ギンザシックス地下駐車場(30分300円)の他に近隣には多数の時間貸し駐車場があります。

 


 
【銀座 黒田陶苑アネックス】
 
TEL.03-3571-3223
11:00-19:00 毎週月曜日・定休
 

 


銀座 黒田陶苑では、東京都のガイドラインに準じて新型コロナウイルスの感染拡大防止に務めております。


 

持田象二さんの個展

 

9月25日(土)から持田象二さんの個展を開催いたします。

東京藝術大学の大学院で研究を続ける持田さん。
今までは、グループ展などで作品を発表していましたが、個展は初めてのことです。

うつわからフィギュアまで多彩な作品の展観になります。

ぜひ、この機会にご高覧くださいますようご案内申しあげます。

 



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ギンザ・シックス [GSIX] の真裏の三原通りに面する銀緑館の2階にあります。
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また、ギンザシックス地下駐車場(30分300円)の他に近隣には多数の時間貸し駐車場があります。

 


 
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石黒宗麿 刷毛目茶碗

 

石黒宗麿 刷毛目茶碗のこと

芸術性豊かな才能を多方面に示し、自由自在な作風を展開した石黒宗麿先生。
鉄釉陶器の高い技術によって人間国宝に認められていますが、多岐にわたる作風により、石黒宗麿の代表作を一点挙げるのは困難といえます。鈞窯・磁州窯・越州窯・宋赤絵・唐白瓷・三彩・藍彩など中国古陶磁、刷毛目・粉引・鉄絵などの李朝陶、時に志野や黒織部まで石黒宗麿の好奇心は尽きることがありませんでした。
京都という土地柄、そして戦後の茶道の隆盛期という時代背景もあり、茶碗の数が多いことで知られている石黒ですが、その茶碗も実に肩の力を抜いた作品が多く、鑑賞するものにとっては物足りない要素が多く、実用性を喜ぶしかない作品が少なくありません。
石黒の茶碗は行間を読まなければ理解できないとお客さまに説明することがよくありますが、意外に作者は気儘に作っていたのかもしれません。
特に晩年に多く作られた鉄絵を施した唐津風の茶碗は、そよ風のように軽やかにまるで散歩をするがごときの成り行きまかせの轆轤わざは、石黒フリークの心をつかんで離しません。
それに対して、この作品は石黒がまだ若い40歳ころの作品で、それまで中国古陶一辺倒だった石黒が、倉敷紡績の大原孫三郎の知遇を得たことなどにより李朝陶に初めて接し、それまでにない感銘を受け、苦心して倣作した刷毛目茶碗です。
肩肘張ってはいるものの、こだわって砂高台にするなど、モノに対する真摯なまなざしを感じる実にしっかりとした美意識の高い茶碗で、石黒の心根に存在する図太い精神性を感じる一品です。
この時期の石黒作品は特に少ないゆえに、回顧展に紹介されることがなく歴史に埋もれがちですが、石黒の初期を代表する茶碗のひとつです。
高台脇に印サインがあり、格調高い書風で認められた共箱に入っています。


※ 価格等、この作品について詳しい情報をお知りになりたい方は、メールでお願いいたします。
メールはこちらから ⇒ MAIL
【 作品番号 : 576 ]


石黒宗麿 いしぐろむねまろ Munemaro Ishiguro

1893   富山県新湊に生まれる
1918   国宝・曜変天目茶碗を見て感動し、陶芸家を志す
1919   東京で陶芸制作を始める。その後各地に転居を繰り返す
1927   京都東山蛇ヶ谷に移る。盟友となる小山冨士夫を知る
1935   京都洛北八瀬に窯を築く
1937   パリ万国博覧会に出品し銀賞受賞
1941   [石黒宗麿作陶展観](銀座 黒田陶苑)
1955   重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
           荒川豊蔵、加藤唐九郎らと[日本工芸会]を結成
1963   紫綬褒章を受章
1968   逝去(享年75歳)


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川喜田半泥子 錦絵「お竹大日」

 

昭和8年(1933年)に制作された作品で、川喜田半泥子が原画を描き、それを木版にした版画「錦絵」です。
この錦絵は、裏面に「大傳馬町川喜田木綿店 開店三百年記念 錦絵 三百枚之内 第二百四十五号」とあり、半泥子生家の家業であった繊維問屋の創業300年を記念して作られたものです。

画面左下には、「昭和八年七月 紺野浦二」と、その下に菱形囲いに「久」の印があります。
紺野浦二(こんの うらじ)は、ペンネームで、「紺の裏地」の洒落で名付けたものです。「久」は家督「久太夫政令」の頭文字。

画面右上に「大傳馬町一丁目 お竹大日」と題名されています。
お竹大日は、江戸時代に東京日本橋大伝馬町に実在した「お竹さん」という美人・聡明で働き者の女性でしたが、のちに大日如来の化身として崇められるようになり、「於竹大日如来」信仰として現在まで伝わっています。大傳馬町に川喜田木綿店があったことから、半泥子はこの題材を選んだと推測いたします。

当時、300点摺られた錦絵ですが、現存する数はかなり限定的で稀少です。また、残存する作品の中でも、状態の良いものは多くありません。
この作品は、奇跡的に色彩や紙が良い状態で残されています。
額の外寸サイズは、幅31.6×縦51.1㎝になっています。

 



下女お竹の事

下女お竹は、寛永の頃、江戸大傳馬町佐久間某・・、一説に馬込某・・の家に使われて居た者です。
日常の行ひが正しく、殊に陰徳を積む事が多くて、お米をといだり、菜葉を切っても少しの捨てたりないようにと、流シ場の水のハケくちに、袋をつけておきまして、之れに残ったとぎ流れのお米や、野菜は自分が頂いて、自分に貰う御飯や、お菜は、貧しい人達に施していたそうです。
すると或る時、此家へ、羽後羽黒山の行者が、訪ねて来て、「私は羽黒山の修行者ですが、何卒現身の大日如来をおがまして頂きたい、と願を掛けますと、江戸大傳馬町佐久間の下女お竹を、おがめと、夢のお告がありました。お宅にお竹さんといふ女中さんがいらっしゃるなら、おがまして頂きたい」といひました。
之を聞いて佐久間夫婦は不思議に思ひましたが、「如何にもお竹といふ、大層心掛のイイ女中が居ます。左様の事ならば呼んでまいりましょう」と臺所に行って見升と、お竹の身体から、金色の御光がさして居て、彼是するうちに、紫の雲に乗って天上しましたといふ、傳説があり升。
現に芝の心光院といって、俗に赤門寺といふお寺には、お竹の木像だの、お竹の使った流シ板だの、お竹大日如来に信仰の厚かった徳川大奥の桂昌院が納められた、立派な蒔繪の手文庫などがあり升。
此傳説の真偽の程は分りかねますが、私の木綿店が、此大傳馬町で、矢張お竹さんと同時代の、寛永年間から永續しまして、今年三百年になりましたので、記念の為に大傳馬史といったよふなものを書いて見ました折ですから、此「傳説のお竹さん」に、敬意を表しまして、例の私の道樂気から、生れて初めて、錦繪といふものを描いて見たのです。
しろうとの、殊に初めての試みで、どんなものが出来るかと思ひましたが、幸ひ落合直成さんの御紹介で、渡邊庄三郎さんに、商賣気離れてのお骨折を掛けたものですから、これでも私自身としては、思ったよりイイものが出来たと、嬉しくて仕様がないので、御懇意の方々に、おしつけてお納めをお願ひするのです。 

昭和九年  初春 
半泥子こと   紺野浦二

(原文ママ)


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川喜田半泥子  |  Kawakita Handeishi

1878   大阪市で生まれる (本名・善太郎)
1979   家督相続し、16代川喜田久太夫政令を襲名
1903   百五銀行取締役に就任
1910   三重県議会議員に選出
1912   趣味として作陶をはじめる
1919   百五銀行頭取に就任
1925   三重県津市千歳山に窯を築き、作陶を本格化させる
1934   工房を「泥仏堂」と名付け、号としても用いる
1942   からひね会を発足し金重陶陽・三輪休和・荒川豊蔵らを指導
1946   千歳山から津市廣永に移り、製陶所「広永陶苑」を創設
1957   傘壽記念半泥子翁八十賀百碗譜を刊行
1963   逝去(享年84歳)


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棟方志功 版木額

板画家・棟方志功(1903-1975)先生の木板画「女人の柵」の版木を額装したものです。
版木の裏面に署名と制作年が直筆で書かれている貴重な作品です。
額の外寸サイズは、幅22.7×縦28.5㎝になっています。


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棟方志功 Munakata Shiko

1903  青森県青森市に生まれる
1924  洋画家を志し上京する
1928  油絵で帝展入選
     この頃より木版画を始める
1936  柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司らと知遇を得る
1938  新文展に版画を出品し特選となる
1939    「二菩薩釈迦十大弟子」を発表
1942     版画を「板画」に改める
1957   鎌倉にアトリエ「雑華山房」を構える
1959     渡米。各地で作品発表や講義を行う
1961     京都・法輪寺から「法橋位」を叙位
1962     富山・日石寺から「法眼位」を叙位
1963     藍綬褒章を受章
1965     紺綬褒章を受章
1970     文化勲章を受勲
      文化功労者に顕彰
1974     棟方志昂に一時改名するが再び志功に戻す
1975     逝去(享年72歳)


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