加守田章二 炻鉢のこと
加守田章二(1933~1983) 炻鉢
1968年 w27.9×h3.0㎝ 共箱
「私は陶器は大好きです。しかし、私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています。私の仕事は陶器を作るのではなく、陶器を利用しているのです。私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです。これが私の仕事の方向であり、また私の個人の陶芸に対する作家観です。」
陶芸界の鬼才と呼ばれ日本の戦後の現代陶芸の主役として海外でも高く評価される加守田章二先生。
大阪岸和田に生まれ、49歳で早逝した加守田は、京都市立美術大学で陶芸を専攻し、卒業後に茨城日立の製陶所勤務を経て、26歳の時、栃木益子に移る。
民藝運動の主軸であった巨匠・濱田庄司が拠点とする1960年代の益子は陶芸の聖地として注目を浴び、多くの陶芸家が凌ぎを削る地になっていた。
若き加守田はその地・益子を選び、陶芸家として制作活動を始めたのである。
益子での制作の当初は、濱田を始め多くの陶芸家が使っている地元の釉薬・陶土・登窯を用いた益子焼風のうつわ作品を手掛けていたが、数年後には穴窯で焼成した中世の灰釉陶器に感化された作品を作り始めた。
その加守田の灰釉作品は公募展で受賞を重ね高い評価を得るようになり、1967年には当時の彫刻・造形美術の最高賞と言われた「高村光太郎賞」を受賞することになったのである。
その受賞によって加守田の存在は注目され自宅工房への来訪者が行列するほどに益子での生活は一変し、その喧騒を疎ましく思った加守田は工房の移転を考えるようになり、1969年に岩手遠野に制作拠点を移し、約10年の間、妻子を益子に残し遠野で制作活動をしていたのである。
この作品は、加守田章二先生が灰釉作品の次に手掛けた焼き締め作品で、作品名の「炻」とは、焼き締めの意味を持つ。
岩手遠野の土を用い益子の工房で轆轤成形して作られたエッジの際立った鉢で、象嵌や釉彩、線刻など一見見過ごしそうなディテールが美的な作品である。
ガサガサとした表面の感触は、実用的な陶器の本道から外れているが、土という素材の造形美を器の形を纏って表現した加守田の一品である。
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