岡部嶺男 青織部ぐい呑

 

 53年ぶりに里帰りした、岡部嶺男先生の青織部ぐい呑。

この作品は、1962年のある日ある時に、当苑店頭で、ご縁をいただき、とある紳士のもとに嫁いでゆきました。
そして、その紳士のもとで永きにわたり愛蔵・大切にされ、このたび再びご縁をいただきまして、52年ぶりに銀座に里帰りいたしました。
この作品を手にしてじっくりと拝見いたしますと、50年の間、人を飽きさせないという名作の真価が見えてまいりました。
美しいほどに深緑の青織部は、真夏の始まりの木々の緑にも似て、活力に満ちた色合いを呈しています。
再びの50年を大切にしてくださる紳士淑女のもとへお届けできるよう、努力してまいります。


 

岡部嶺男 おかべみねお

1919 愛知県瀬戸市に生まれる(加藤唐九郎の長男)
1935 学校に通いながら家業に従事し、作陶を始める
1938 東京理科大学に入学
1940 大学を中退し入営。各地を転戦
1945 敗戦後、捕虜となる
1947 復員。愛知県豊田市平戸橋に移る
    作陶を再開する
1954 日展北斗賞を受賞
1962 青瓷を始める
1965 紺綬褒章を受章
1968 愛知県日進に移る
1970 窯変米色瓷が完成
1978 病に倒れ半身不随になる。加藤から岡部に改姓
1989 再起新作展を開催し新作を発表
1990 逝去(享年70歳)
2011 没後20年回顧展[宿命-岡部嶺男展](銀座 黒田陶苑)


Mineo Okabe
1919 Born in Seto, Aichi prefecture.
1937 Graduated from Seto Ceramic High School.
1938 Entered into Tokyo University of Science.
1940 Dropped out from the university. Entered into the army of inner Mongolia.
1947 Demobilization from the army. Settled in Hiradobashi, Aichi. (current Toyota city)
1949 Independently began ceramics in Hiradobashi. Married to Tatsuko.
1955 Received the award of the Japanese Ceramics Society at the first time.
1963 Started focusing on researching celadon. Moved to Nisshin, Aichi.
1965 Succeeded in producing 'Funseiji' (粉青瓷) Powdery Celadon. Received Medal with Dark Blue Ribbon.
1969 Dedication of a set of Celadon vases to Umenoma room of Imperial Household Agency
1970 Succeeded in producing Yohen Beishokuji. (窯変米色瓷)
1978 Hospitalization by cerebral hemorrhage. Changed his sir name from Kato to Okabe.
1989 Exhibition of new works from recovery at Matsuzakaya department store in Nagoya.
1990 Passed away at the age of 70.
2011 Retrospective exhibition [Destiny] at Ginza Kuroda Touen.


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加守田章二 湯呑[一九七四]

 

この加守田章二先生の湯呑は、1974年のものです。
1974年は加守田の制作の転換期にあたり、この年に制作された作品は、色彩・カラーの一切を排除した緊張感みなぎる造形的表現を重視したものが中心でした。
今回ご紹介いたしますこの作品・湯呑は、大型作品の多かった1974年の中で、特に稀少性を持つものです。
湯呑の外側に施された刻文様は、花器・壷などの大型作品に象徴的にみられるものです。
ずっしりとした重みは、実用の湯呑とは一線を画す感覚を覚え、サイズ的には小さいものですが、作品としての大きな価値を感じます。

 


 

加守田章二 かもだしょうじ

1933 大阪府岸和田市に生まれる
1952 京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学
1956 京都市立美術大学卒業。茨城日立に移り製陶所に勤務
1959 栃木県益子に移り制作を開始
1962 穴窯での灰釉作品の制作が始まる
1965 灰釉作品が注目される
1966 日本陶磁協会賞を受賞
1967 高村光太郎賞を受賞
1969 岩手県遠野に移り、その後作品は毎年変化していく
1970 [曲線彫文]を発表
1971 [彩色]を発表
1974 [陶板展](銀座 黒田陶苑)以後毎年出品
1979 東京東久留米に工房を移す
1983 逝去(享年49歳)


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黒田辰秋 拭漆欅楕円盆

 

人間国宝・黒田辰秋の上質な欅(けやき)材を用いた大型のお盆です。
美しい木目を求めるために行脚した、辰秋の厳しい目線で選ばれた最高で最上の、欅の大木が使われています。
日本の風土と気候、そして永き歳月が作り出した世界最高峰の和の美を誇ります。
作品の裏面も見逃すことはできません。

このサイズのお盆は、めったに市場に現れることがありません。このたび、コレクターさまから特別にお譲り・ご縁をいただきました。

濱田庄司 柿釉抜絵扁壷

 

民藝の巨匠と云われた濱田庄司の最晩年期に制作された扁壷。
赤味のある茶褐色の柿釉の変化が美しい扁壷で、正面に抽象文様・背面にトウキビ文が抜絵の技法で描かれています。
抜絵とは、釉薬を施釉する前に蝋で文様を描き、釉薬をはじかせる技法で、濱田庄司は初期から最晩年まで、この抜絵技法を好んで用いていました。
ところどころに黒味が現れた柿釉は、この作品を重厚かつ格調高いものに昇華させています。
異例なほど上質な桐箱に納められており、濱田自身の本作品への愛着と誇りを感じます。


濱田庄司 はまだしょうじ

1894 神奈川県川崎市に生まれる
1916 東京高等工業学校窯業科卒業
     京都市陶磁器試験場へ入所
1920 バーナードリーチの誘いで渡英
1924 帰国後、沖縄・京都などに滞在する
1926 柳宗悦・河井寛次郎らと民芸運動を起こす
1931 栃木県益子の住居に登窯を築く
1942 古民家を移築し、陶房兼住居とする
1955 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1968 文化勲章を受章
1978 逝去(享年84歳)


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岡部嶺男 灰釉盃

 

 

 岡部嶺男先生の灰釉ぐい呑。

1962年頃から、青瓷作品を本格的に取り入れるようになった岡部嶺男先生ですが、同時に、天目・鉄釉・灰釉の作品も手掛けてゆきました。
深い天目形状のこのぐい呑は、洗練された造形美をしており、さらには宝石の輝きにも譬えられる美しい灰釉を纏っています。
嶺男灰釉の究極を感じていただける逸品。
掌の上で、鑑賞するだけでもこの作品の魅力は存分に伝わってまいります。


 

岡部嶺男 おかべみねお

1919 愛知県瀬戸市に生まれる(加藤唐九郎の長男)
1935 学校に通いながら家業に従事し、作陶を始める
1938 東京理科大学に入学
1940 大学を中退し入営。各地を転戦
1945 敗戦後、捕虜となる
1947 復員。愛知県豊田市平戸橋に移る
    作陶を再開する
1954 日展北斗賞を受賞
1962 青瓷を始める
1965 紺綬褒章を受章
1968 愛知県日進に移る
1970 窯変米色瓷が完成
1978 病に倒れ半身不随になる。加藤から岡部に改姓
1989 再起新作展を開催し新作を発表
1990 逝去(享年70歳)
2011 没後20年回顧展[宿命-岡部嶺男展](銀座 黒田陶苑)


Mineo Okabe
1919 Born in Seto, Aichi prefecture.
1937 Graduated from Seto Ceramic High School.
1938 Entered into Tokyo University of Science.
1940 Dropped out from the university. Entered into the army of inner Mongolia.
1947 Demobilization from the army. Settled in Hiradobashi, Aichi. (current Toyota city)
1949 Independently began ceramics in Hiradobashi. Married to Tatsuko.
1955 Received the award of the Japanese Ceramics Society at the first time.
1963 Started focusing on researching celadon. Moved to Nisshin, Aichi.
1965 Succeeded in producing 'Funseiji' (粉青瓷) Powdery Celadon. Received Medal with Dark Blue Ribbon.
1969 Dedication of a set of Celadon vases to Umenoma room of Imperial Household Agency
1970 Succeeded in producing Yohen Beishokuji. (窯変米色瓷)
1978 Hospitalization by cerebral hemorrhage. Changed his sir name from Kato to Okabe.
1989 Exhibition of new works from recovery at Matsuzakaya department store in Nagoya.
1990 Passed away at the age of 70.
2011 Retrospective exhibition [Destiny] at Ginza Kuroda Touen.


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鹿児島壽蔵 あすか乃風

 

1973年に制作された鹿児島壽蔵先生の高度な技術を凝縮させた作品。
繊細精緻な技が冴え、色彩感覚が特に優れた [ 陶胎染色和紙金砂子装 ] の婦人像です。

陶土で塑像し焼成して陶胎を作り、その上に、手漉きした和紙に彩色したものを多層に貼り込み、最後に金砂子で荘厳するという技法で制作された逸品になっています。
人間国宝 鹿児島壽蔵 人形作品集所載(朝日新聞社刊・1977年)

万葉集の志貴皇子の短歌に
「采女の袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」があります。
采女は諸国から宮中に仕えた女性で、容姿端麗でなければいけなかった。
これは、その美しい采女をモチーフにした作品でありましょう。
美しい名品です。

 


鹿児島壽蔵 かごしまじゅぞう

1898 福岡県福岡市生まれ
1913 博多人形制作に従事する
1932 紙塑人形の制作を開始
1933 日本紙塑藝術研究所を創設
1936 帝展に入選
1961 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1982 逝去(享年84歳)