1月4日(金)まで、年末年始休業をさせていただきます。
新年は、5日(土)より平常営業いたします。
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黒田陶苑は、新年4日(金)まで、年末年始休業をさせていただきます。
おかげをまちまして、昨日深夜、今年の業務をすべて終えました。皆さまには、たいへんお世話になりました。
多くの方々と出会うことができ、さまざまな名品とのご縁をいただいた一年でございました。ほんとうにありがとうございました。
印象的なできごとの一つが、石黒宗麿先生が遺された名作「木の葉天目茶碗」の新発見でした。
一昨年から活動を始めていた石黒宗麿旧居の保存修復活動の一環に携わっていたことで、今年の梅雨の頃でしたが、精華大学の教授から一本の電話が入り、その内容に驚きました。「黒田さん。えらいこっちゃ。たいへんなモノが出てきよった!」まさかそんなことがあるわけないと思いつつも、メールで送られてきた画像を見て、本当に大変なことが起ったと。その後、作品検証の際に、実物に触れる機会を得て、石黒先生の最後のお仕事に感銘することしきりでございました。
さきごろ、精華大学のギャラリーフロールでの展覧会で再会。あらためて、超一級の名品であることを確信したものでした。
来年以降、石黒宗麿の研究が進みさらに新しい発見もありそうですので、引き続き注目してまいりたいと存じます。
来たる新年も、名品との出会いに積極的に取り組みたいと思っております。引き続き、ご指導賜りますようお願いいたします。 平成30年歳末・記
「私は藝美革新を叫んでおりますくらいですから伝統に重きをおきながら、伝統に無きものをやっております」
1955(昭和30)年に開いた個展の案内状に北大路魯山人自らがこのように書き記したまさにその頃、この壺を熱心に作っていました。
一見すると「伝統に重きを置く」どころか、古典そのまま、中世の信楽壺の迫力や品格そのものであると見えてしまい、「伝統に無きものを作っている」という魯山人が掲げた看板に偽りありと思えてしまいます。
古来、壺は神格化され、壺の中は仙境とされ、心の中とも言われ、壺に関する世界観や宇宙観まで語られていました。
その神たる壺を作る作者は、時間をかけゆっくりと祈りを込めながら輪積みし、轆轤に向かっては、精神を集中させ全身全霊をこめて作るものだとされていました。
美の悪魔たる北大路魯山人は、衆目を集めることを意図し、この壺にとあるトリックをしかけました。それは、自身が所蔵する古信楽壺を原型にし、それを型抜きしてこの作品を作るというものでした。
その制作には、ひとかけらの精神論はなく、美しいもので身の周りを飾りたいと願った魯山人の美へ執着のみが存在したのです。
この壺は、魯山人藝術の究極を示している一品です。
曲線彫文と遠野と
百年余前、1909(明治42)年盛夏、柳田國男は、はじめて遠野を訪れた。
遠野の地に古くから伝承されてきた民話を集めた名著「遠野物語」上梓の前年のことであった。
加守田章二先生が、遠野を訪れたのは、1967(昭和42)年初冬。高村光太郎賞の受賞により、身辺が騒がしくなり、落ち着いた制作環境を探し求めていたころである。
34歳の加守田は、はじめて訪れた遠野を気に入り、工房用地を遠野市青笹町踊鹿(おどろか)に決め、すぐに土地を取得購入したという。しかし、その地は利便性や住環境を無視した、とても辺鄙な場所。
遠野物語の序文で印象的に登場する「しし踊り」は、鹿の面を被って舞う遠野の民俗芸能で「鹿踊り」と表記されることもある。加守田があえて辺鄙な場所である「踊鹿」に土地を決めたのは、この地名の響きによるものだったのではないだろうか。
1970(昭和45)年に、高島屋美術画廊(東京・日本橋)で発表した「曲線彫文」の作品は、遠野の土を使って作られた。全面に波状の線彫りが施され、器面自体の凹凸も加わり見るものに強い印象を与え、威容を誇る。加守田作品の中でも、特に名作として名高いもので、国内外で評価され、今ではそのほとんどが美術館に収蔵されている。
民話の郷・遠野に残る木造建築には、永い歳月の風雪にさらされ、木質が変化して年輪部分が浮き出しているものが多く見受けられる。朽ちかけた鳥居などには、過酷な気象を想像するが、民間信仰のシンボルとして遠野の風景に溶け込んでいる。こうした風景を加守田は愛したに違いないだろう。
1969(昭和44)年に、加守田が遠野に移って最初に手掛けた「曲線彫文」は、このような遠野の風景のいたるところにある木造建築の「木目」に由来している。特に、早池峰山古参道の鳥居や常堅寺の仁王像の木目は印象的であり、部分的に見れば「曲線彫文」そのものに見えてしまうのは、私だけではないだろう。
遠野物語の世界にあこがれて移り住み、遠野の風景を作品に取り入れた加守田章二。「曲線彫文」は、加守田によって綴られた遠野物語なのだ。
黒田佳雄
遠野・常堅寺の山門と仁王像
遠野・常堅寺の山門・仁王像(部分拡大)
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加守田章二 | Kamoda Shoji
1933
大阪府岸和田市に生まれる
1952
京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学
1956
京都市立美術大学卒業。茨城日立に移り製陶所に勤務
1959
栃木県益子に移り制作を開始
1962
穴窯での灰釉作品の制作が始まる
1965
灰釉作品が注目される
1966
日本陶磁協会賞を受賞
1967
高村光太郎賞を受賞
1969
岩手県遠野に移り、その後作品は毎年変化していく
1970
[曲線彫文]を発表
1971
[彩色]を発表
1974
[陶板展](銀座 黒田陶苑)以後毎年出品
1979
東京東久留米に工房を移す
1983
逝去(享年49歳)
このたび黒田陶苑では、清水志郎酒器展を開催いたします。
清水さんの轆轤のしごとは、柔らかい土の持ち味を活かしつつもエッジを効かせ繊細な妙味とふてぶてしさの醍醐味を併せ持つという近代稀にみる仕業を見せてくれています。
今回の酒器展では、清水さんのしごとぶりを存分に楽しめる展観になると思っております。
ぜひご高覧くださいますようご案内申しあげます。 黒田佳雄
銀彩徳利 + 引出黒ぐい呑
ぐい呑 2種
清水志郎 Shiro Shimizu
1979 京都市東山生まれ
父は清水保孝、祖父に清水卯一
1998 京都精華大学卒業
2002 祖父・卯一の指導をうける
2005 父・保孝の指導をうける
2010 京都の土に興味を持つ
2012 窯を作る
2014 自ら掘った土で制作を始める
2016 第一回黒田陶苑 個展
練上技法を極めた人間国宝・松井康成の最晩年に数点のみ制作された萃瓷練上のぐい呑です。他のぐい呑作品に比べて一回り以上大きいサイズを誇るこの作品には、梅花模様の練り上げが美しく表されており、エッジを強調した口縁部にも見どころがあります。他には見ることができない松井康成のぐい呑の逸品です。
松井康成 まついこうせい
1927 長野県に生まれる
1955 田村耕一に師事
1973 [現代工芸の鳥撤展]に招待出品
1980 [現代陶芸百選展]招待出品
1988 紫綬褒章を受章
1992 松井康成陶筥展 (銀座 黒田陶苑)
1993 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
2003 逝去 (享年77歳)
人間国宝・荒川豊藏は、91歳の天寿を全うする直前まで、精力的に制作に勤しんだ陶芸家でした。特に、77歳で文化勲章を受章したのちには、唐津や萩、丹波、備前、信楽などの窯業地を巡っては、その地を代表する陶芸家のもとで作陶するということをしていました。
轆轤だけでなく、時には、自らが土を掘ることもあったといい、作陶への執念を燃やし続けていました。
そういったこともあり、荒川豊藏が永年に渡り使用し、多くの名碗を作り上げていた穴窯は、晩年期には、使われなくなり、志野も登窯で焼かれるようになってゆきました。
この作品は、荒川豊藏の最晩年期のぐい呑です。
昭和40年(1960年代後半)頃までのぐい呑は、桃山陶を意識した古典的な形状の小ぶりのものや平形を作っていた豊藏は、昭和45年(1970年)頃から一転して大きなものを作り始めます。
それは、その時代の最大のライバルであった加藤唐九郎の作りだす大振りな作品へのコレクターの注目度が高まっていたことに由来するといってよいでしょう。
抹茶茶碗をそのまま小さくした形状で大振りというこの作品は、荒川豊藏の最晩年のぐい呑の特徴を顕著に表しています。