荒川豊藏 志野酒盃

 

 

人間国宝・荒川豊藏は、91歳の天寿を全うする直前まで、精力的に制作に勤しんだ陶芸家でした。
特に、77歳で文化勲章を受章したのちには、唐津や萩、丹波、備前、信楽などの窯業地を巡っては、その地を代表する陶芸家のもとで作陶するということをしていました。轆轤だけでなく、時には、自らが土を掘ることもあったといい、作陶への執念を燃やし続けていました。
そういったこともあり、荒川豊藏が永年に渡り使用し、多くの名碗を作り上げていた穴窯は、晩年期には使われなくなり、志野も登窯で焼かれるようになってゆきました。
この作品は、荒川豊藏の最晩年期のぐい呑です。昭和40年(1960年代後半)頃までのぐい呑は、桃山陶を意識した古典的な形状の小ぶりのものや平形を作っていた豊藏は、昭和45年(1970年)以降から一転して大きなものを作り始めます。
それは、その時代の最大のライバルであった加藤唐九郎の作りだす大振りな作品へのコレクターの注目度が高まっていたことに由来するといってよいでしょう。
茶碗をそのまま小さくした形状で大振りというこの作品は、荒川豊藏の最晩年のぐい呑の特徴を顕著に表しています。

 

 


 

荒川豊蔵 あらかわとよぞう

1894 岐阜県多治見に生まれる
1922 京都に移り、宮永東山窯の工場長を務める
         北大路魯山人に出会う
1927 鎌倉に移り、魯山人の星岡窯に勤務
1933 星岡窯を辞し、美濃大萱牟田洞に移り作品制作を始める
1941 初個展(梅田阪急・当苑主催)
1946 多治見・虎渓山に食器製造目的の水月窯を創設
1955 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1960 宗達下絵光悦筆[三十六歌仙和歌巻](重要文化財)を購入
1971 文化勲章を受章
1977 随筆集[縁に随う]刊行
1985 逝去(享年91歳)


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古谷和也 個展 -穴窯への想い-

 

このたび黒田陶苑では、信楽焼の古谷和也さんの個展を開催いたします。
古谷さんの代名詞にもなっている穴窯は、単純な構造で作られているがゆえに焼成がとても難しいとされています。
その難解な穴窯と向き合い研究を重ねている古谷さんは、勤勉実直の姿勢にてこだわ
りの信楽を実践。
隔年開催の黒田陶苑の個展では、毎回、丸二年の実績を発表してきました。
今回の新作展は、信楽の土の魅力を多方面からとらえた作品が加わり、伝統
の壺や蹲には円熟味を押し出してきました。
想いの籠った特別の穴窯から出たばかりの新作にご期待ください。
掲載作品以外にも多数出品されますので、ぜひ会場でご高覧くださいます
ようご案内申しあげます。

 

 


 

 


信楽窯変壺

 

 

 

 


信楽茶碗

 

 

 

 


信楽徳利(左)・伊賀徳利(右)

 

 

 

 

 


信楽角花入

 

 

 

 


 

 

 

古谷和也 Furutani Kazuya

1976年   滋賀県信楽町出身
1997年   山口芸術短期大学卒業
1998年   京都府立陶工技術専門校卒業
      父・古谷道生に師事
2004年        黒田陶苑第1回個展(以降、隔年開催)

 

 

 

 


 

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新発見の石黒宗麿「木の葉天目茶碗」

 

石黒宗麿没後50年の今年、石黒宗麿の旧工房から「木の葉天目茶碗」が新発見されました。
その茶碗は、石黒が使用していた登り窯の内部に保管されていたサヤと呼ばれる焼成用ケース(画像:窯の右側に放置されているものと同じもの)に入った状態で、高台にはハマと呼ばれる溶着を防ぐ粘土塊が付いたまま見つかりました。このことから、窯出しされていない手つかずの状態で50年以上を経過していたと判断されました。作者である石黒先生さえも見ていない、誰も見たことがなかった木の葉天目茶碗がまるでタイムスリップしたかのように、没後50年の節目の年に窯出しされたということで、お披露目の展覧会をすることになりました。
詳しくは、京都精華大学のウエブサイト 
http://www.kyoto-seika.ac.jp/…/info/topics/2018/11/22/51063/
http://www.kyoto-seika.ac.jp/…/…/2018/1214ishiguro/index.php 
をご覧ください。
画像は、石黒宗麿が生前使用していた登り窯です。京式登り窯と呼ばれる形式の特徴があるもので、四室の焼成室があります。木の葉天目茶碗は、この登り窯の2番目の焼成室に仕舞われていたサヤの中にありました。なぜ、そこにあったのかは謎めきますが、当時の窯出しの際のケアレスミスによって出し忘れていたと私は想像し考えています。
現在は測量調査が進み全体像が見えていますが、調査開始当初はこのように登り窯の手前部分・胴木間(どうぎま)と呼ばれる燃焼室部分の半分以上が土砂に埋まっていました。
どうして埋まっているかというと、窯のすぐ横に古くからの沢があり、沢の流れが石黒没後のある時大雨により鉄砲水となり、大量の土砂が窯場周辺に流れ込んだためなのです。
この窯の周辺の土砂の中から、今まで知られていなかった石黒宗麿の制作に関する事実も発見されています。
今回の一連の発見について思うことは、石黒宗麿の現代性です。常に新しいものごとを考え、新しいものごとに挑戦してゆく創作創造の姿がリアルに感じられました。50年以上前に、今よりも斬新で奇抜な思考・手段をもって、新しきを求めていた事実を再認識し、石黒宗麿その人と作品に今まで以上に興味が湧いてまいりました。

 

北大路魯山人 志野茶碗のこと

 

魯山人先生は、志野茶碗の制作を1940年代の戦争期を挟み死期直前までおよそ20年の間、手がけていました。
最初の時期は、古典に倣い白いモグサ土を使用し、形状も半筒形としていましたが、後半の特に戦後期には、独自の概念でもって信楽土を多用し、古典とは趣を異にする一味ふた味も違う志野焼を作り上げてゆきました。
この作品は、1940年代後半の作品で、魯山人が所有していた本阿弥光悦の茶碗の形を取り入れて作られています。ふくよかで美しいアールを持つこの茶碗は、やや大振りに作られ、口縁部や腰部、高台回りに赤味の強い緋色が現れて見ごたえがあります。
魯山人が試行錯誤しながら今までにない概念で作り上げた志野焼が出現すると、評論家をはじめ、茶道家・美術関係等各方面から大バッシングが巻き起こります。しかし、後継の陶芸家の加藤唐九郎や荒川豊藏らは、魯山人志野の特徴といえる赤味の強い志野焼を追いかけてゆくことになります。
特に荒川豊藏は、師匠でもある魯山人の影響を強く受けて、茶碗の形状自体も魯山人のこの形を取り入れました。
魯山人が考え出した赤い志野焼「紅志野」は、のちにスタンダードとなり、志野茶碗としては異風な形状についても、荒川豊藏が引用し多作したことで、志野茶碗の基本形状として確立されました。
魯山人のすごさというのは、残された名作の数々云々でもありますが、このように新しい風潮を巻き起こし、新しい文化を作ってしまう深い洞察力や美を想う迫力をもっていたということに尽きると思っています。
この作品は、現代志野茶碗のルーツとして存在します。

 

瀧川恵美子 個展 -うつわ-

 

このたび、黒田陶苑では瀧川恵美子さんの個展を開催いたします。
古典・古陶磁を規範としながらも、現代の生活に似合う、使えるうつわを作り続けている瀧川さん。
実用に堪え、しかも桃山気分までも味わうことができるうつわは、
瀧川さんが丹精こめて作ったもの以外に見当たらず、なにより瀧川さんの志野は使う
ことによって得られる味わい深い趣きを愉しめる。
美的で実用的で上質で、一つからでも買える瀧川さんのうつわをぜひお試しいただきたく存じます。                
                                   黒田佳雄

 

 


 

 


志野千鳥文向付

 

 

 

 


鼠志野徳利

 

 

 

 


志野草花文四方向付

 

 

 

 

 


鼠志野向付

 

 

 

 


志野草文猪口

 

 

 

 

 

 


 

 

瀧川恵美子    Takikawa Emiko

1956   愛知県豊川市生まれ
1977   多治見工業高校専攻科修了
1990   製陶所勤務後、独立。制作を開始
2006   岐阜県土岐市に工房設置
2011   第一回個展(銀座 黒田陶苑) 以降毎年開催

 

 


 

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日本の天目のこと

日本の天目のこと

- はじめに -

現代の日本では、おもに「曜変天目」「油滴天目」「禾目天目」「木の葉天目」「玳皮天目」の五種類の茶碗を総称して「天目」もしくは「天目茶碗」と呼ばれています。他に「灰被天目」「柿天目」「兎毫盞」「烏盞」「星天目」など古くから伝わる名称も存在しますが一般的ではなく、専門用語として使われており、美術館図録などで目にする程度になっています。
天目を制作する陶芸家のことを「天目作家」と呼び、天目作家のほとんどが「曜変天目」を最高位として位置づけ、その再現を目標として日々の研究を重ねながら、それぞれが独自の「天目」の制作を続けています。

 

- 日本の天目の起源 -

12世紀以降に中国の建窯を中心に作られた天目茶碗は、鎌倉時代(13世紀の初め)に喫茶の風習が伝えられると共に日本に輸入され各地の禅宗の寺院で儀式などに用いられていました。その後、喫茶の風習が武家にまで広まったことで天目茶碗の需要が増え、それを補うために、鎌倉時代末期(14世紀初め)に、愛知県瀬戸で日本の天目茶碗が作られ始めました。
桃山時代(16世紀)になり、千 利休(1522~1591)が「茶の湯」を大成して、日本独自の喫茶文化が確立したことにより、使用される茶碗の種類が多様化して、天目茶碗の製造は次第に減少してゆきました。江戸時代(17世紀中頃)には、京都の野々村仁清が、個人作家として初めて天目茶碗を制作しました。

 

- 大国へのあこがれ -

明治時代(1800年代)~昭和時代初め(1930年頃)、日本では中国趣味が流行し、実業家・財閥家による陶磁器などの中国の美術品の蒐集が盛んに行われていました。
現在、国宝に指定されている曜変天目茶碗(静嘉堂文庫美術館・所蔵)が、1918年(大正7年)に東京で行われたオークションに出品され、当時の日本国内最高額で落札された他、現在、国宝や重要文化財に指定されている陶磁器や宋元時代の絵画や書など多くの中国美術品が高額で取引きされた時代でした。

 

- 河井寛次郎と石黒宗麿 -

昭和時代(20世紀)以降の日本の天目のキーパーソンには、河井寛次郎(1890~1966)と石黒宗麿(1893~1971)の二人の偉大な陶芸家が挙げられます。
島根県生まれの河井寛次郎が、京都で陶芸家として活動し始めたのが1915年で、中国趣味の時代と重なり、当時の京都の陶芸家や陶工は、需要の高かった中国陶磁器の倣作品の技術を競い合っていた時代でした。河井は、卓抜した技術と天才的な感覚で、青瓷や天目・辰砂・三彩などを見事に再現し、さらに確かな作陶技術に裏付けられた独創的な作品も制作し、まだ20歳代後半の若手作家にも関わらず、大きな名声を得てスターダムにのし上がりました。特に河井は、釉薬の研究に成果を上げ、天目などの釉薬の基礎を作り、その後の陶芸家は、河井がつくりあげた天目釉の調合を基本にしています。
富山県生まれの石黒宗麿は、1918年に東京で偶然立ち寄ったオークションの下見会で、曜変天目茶碗を目にします。その神秘的な美しさに深く感動し、「これが人の手によるものならば、自分も作ってみよう」と25歳で陶芸家を志し、陶芸修業などで各地を転々とした後、34歳の時、京都に工房を構えて、曜変天目の再現を目指し本格的に陶芸家としてスタートしました。石黒宗麿は「曜変天目は、窯の中の偶然によって現れたのではない」と設定し、最新の窯業・化学技術を駆使して曜変天目の再現を試みました。結果的に曜変天目の再現の夢は果たせませんでしたが、木の葉天目の忠実再現を含めた天目釉の永年の研究により「鉄釉陶器」の国指定重要無形文化財(人間国宝)にまで登りつめました。名作の数々を残しつつ、後進の指導にも熱心にあたり、その結果として、天目作家が京都を中心に全国で生まれてゆくことになりました。

 

- 戦後日本の天目 -

河井寛次郎と石黒宗麿が作り上げた現代日本の天目は、1950年代以降、京都を中心に瀬戸や有田などの窯業地で活動する陶芸家たちも作るようになり、天目釉から変化した黒釉や鉄釉も流行し、茶碗だけでなく花器や食器など多様化してゆきました。
石黒宗麿に指導を受けた清水卯一(1926~2004)が、この時代の天目を先導し、戦後復興の経済発展による好景気の追い風もあり、青木龍山(有田)・木村盛和(京都)・加藤孝俊(瀬戸)・鎌田幸二(京都)・初代 長江惣吉(瀬戸)など多くの陶芸家が各地で多様な天目作品を作り活躍していました。しかし、栄華を誇っていた日本の陶芸界は、1990年代になると日本経済の低迷により失速。茶道の衰退も始まり、天目作家は苦境に立たされ、天目だけでなく他種の作品も手掛けるようになってゆきました。現在では、天目だけを作る陶芸家は少なくなってきています。

 

- 曜変天目の再現 -

21世紀になり日本の陶芸界は新しい局面を迎え、古陶磁の再現を目指す指向が強くなってゆきます。桃山時代の志野・織部・黄瀬戸・唐津や、李氏朝鮮時代の井戸茶碗や高麗茶碗、備前・信楽などの古陶を忠実に再現する陶芸家が現れました。
天目作家は、曜変天目の再現に特化するようになってゆきます。林 恭助(1962~ )や長江惣吉(1963~ )、瀬戸毅己(1958~ )、桶谷 寧(1968~ )などが、それぞれの独自の技法で、静嘉堂文庫美術館の国宝・曜変天目茶碗の再現を試みています。
林や長江、瀬戸の三人は、石黒宗麿が近代の窯業・化学技術を駆使して曜変天目の再現を試みたように最新技術を導入しているのに対し、桶谷は中国・南宋時代の古代の技術・技法を探求しその解明を続け、数千・数万点の中から究極の1点を取りあげるという中国・南宋時代の制作方法に着目し、ついには最も困難と云われていた曜変天目の再現に成功しています。

 

- 天目の未来 -

桶谷 寧が成功した曜変天目の再現は、コレクターに大きなインパクトを与えました。
日本の天目の未来は、究極の一碗を求めるようになった国内外のコレクターの確かな審美眼が担っています。
中国・南宋時代に作られた日本の国宝・曜変天目茶碗(静嘉堂文庫美術館藏)・油滴天目茶碗(大阪東洋陶磁美術館藏)を超越するものを作れる陶芸家が現れることを待つしかありません。

 



石黒宗麿 木の葉天目碗

 

 


桶谷 寧 曜変天目茶碗

 

 

原 憲司 個展 -美濃高麗-

 

このたび黒田陶苑では、原 憲司先生の個展を開催いたします。
今回、原先生が掲げられた個展のテーマは、「美濃高麗-みのこうらい」です。
「井戸茶碗がもし、桃山時代の美濃で作られていたら」と仮定し、美濃の土石や
樹木の灰を使って、高麗・井戸風茶碗の制作を試みました。
美濃高麗茶碗の他には、黄瀬戸や鼠志野などの上質を極めた酒器・うつわ等を展観いたします。
ぜひご高覧くださいますようご案内申しあげます。

 

 


 

 


美濃高麗茶碗

 

 

 

 


美濃高麗茶碗(高台)

 

 


 

原 憲司 Hara Kenji

1947  東京生まれ
1969  陶芸家・加藤卓男に師事
1982  独立
    桃山陶・黄瀬戸を中心に制作
2005  黒田陶苑にて第1回個展

 


 

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