このたび黒田陶苑では、「辻 晉堂の陶彫とその周辺」展を開催いたします。
写実的な木彫作品で注目され、戦後は現代彫刻の分野で大きな業績を残した彫刻家・辻 晋堂は、京都美大の教授時代に「陶・やきもの」に触れて、陶を素材とした彫刻作品「陶彫」を手がけるようになりました。
結果的に、八木一夫ら走泥社の人々に大きな影響を及ぼすことになった辻の陶彫は、晩年には、ユニークで抒情的な作風へと変化しました。
今回の展観では、辻 晉堂の最晩年期に制作された陶彫作品を主に、併せて八木一夫らの作品を展示いたします。
御高覧くださいましたら幸いに存じます。
辻 晉堂:西行
「彫刻といふ考へを放棄することによって自然に無理をしないでものを作ることになったと云ってもいい。いろんなことを忘れてしまって、残ったものを形に表はすということになりかかってきたように、自分で思ふのである」- 辻 晉堂
明治43(1910)年、鳥取県溝口町に生れた辻 晉堂は、21歳で上京し、新聞配達をしながら油画を学んだ。彫刻は独学で習得し23歳のとき日本美術院展に石膏彫刻が入選したことをきっかけに、彫刻家の道へと歩み出す。
「天才現る」と評された辻は毎年入選を重ね、最年少で院展の同人に推挙。作品は粘土の塑造から木彫に移り、受賞を重ねることで評価も高まっていった。
そして美術院から平櫛田中の古稀を祝う記念の木彫作品「平櫛先生古稀像」(東京藝術大学大学美術館所蔵)の制作作家にも抜擢されたのである。
のちに文化勲章を受章した彫刻家の巨匠、平櫛田中は「辻君はなにしろ、日本の彫刻は、俺が換えてみせるという気組で居いるんだ」と述懐した。
戦後は木彫からセメントや鉄板を使用する現代彫刻へと変化し、辻の作風は具象から抽象に大きく転換。大型の作品も意欲的に手がけていった。
そして昭和30(1955)年、京都市立芸術大学の彫刻科の教授に就任したころから、陶を素材にした陶彫に取り組む。
当時の京都市立芸大は東山にあり、大学の近くの周辺は清水焼の窯元が集中していて、多くの製陶所と大型の登り窯があった。
辻は地の利を活かし、陶土で塑造し、登り窯を使ってやきものの作品をつくることを思い立つ。そして1メートルを超える大型の抽象陶彫など、後に代表作となる作品をつくっていったのである。
のちに前衛陶芸集団「走泥社」の八木一夫らに大きな影響を及ぼすことになった辻の陶彫は、昭和40年代以降、さらなる変化を遂げる。
昭和43(1968)年、大気汚染防止法施行によって、京都の登り窯の多くが廃止されることになり、辻はこれを契機に陶彫の制作を中止して、版画制作に没頭する。造形に優れた辻の版画作品は、唯一無二のモダンな表現で、現代でも人気が高い。
そして昭和49(1974)年より、自宅アトリエに小型の電気窯を据えて再び陶彫の制作をはじめた。すると作品は必然的に小型化していった。
ところが、その結果「写実を超える」と評された初期の木彫や戦後のダイナミックな迫力を感じる大型抽象作品には見られなかったユニークな陶彫作品が生み出されたのである。
制約が多い電気窯での制作は、自由な作風へと転換する機会になったのだ。
そして冒頭の辻 晉堂の言葉が表すとおり、純化された表現世界が出現しているのである。
黒田佳雄
辻 晋堂 Shindo Tsuji
1910 鳥取県伯耆町に生れる
1931 上京。彫刻(木彫)作品の制作を始める
1942 日本美術院同人に推挙される
1955 京都市立芸術大学彫刻科教授に就任
1981 逝去