板谷波山 茶杓 [大利根]

 

板谷波山 いたやはざん

1872 茨城下館に生まれる
1894 東京美術学校彫刻科卒業
1896 石川県工業学校木彫科主任教論になる
1903 東京・田端に移り工房を築く
      波山と号し制作を開始
1906 日本美術協会展・技芸褒状一等を受賞
1917 日本美術協会展・金牌第一席を受賞
1929 工芸家として初の帝国美術院会員となる
1934 帝室技芸員となる
1953 文化勲章を受章
1960 重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるが辞退
1963 逝去(享年91歳)

Hazan ITAYA [Tea spoon]

太田 梁 陶芸展

 

 

 

 

黄瀬戸鉢

 

 

黄瀬戸徳利・黄瀬戸ぐい呑

 


 

太田 梁さんに

 

それは黄瀬戸の茶碗で、油揚肌にタンパンが美しく映えていた。他作家を凌ぐ出来映えに、たいそう驚いたものだ。

その魅力的な茶碗の作者・太田さんにぜひとも会いたいと思ったが、逢うこと、その思いは叶わぬことだった。

太田さんの作品を初見したのは、2014年夏。彼が亡くなって1年が経とうとするときで偶然のような作品との出会いになった。

1971年、岐阜県瑞浪に生まれた太田さんは、20歳代にはロックバンドに在籍しベースを担当、東京・名古屋を中心に音楽活動をしていた。

或時、陶芸教室に通うようになり、陶器制作の魅力に彼はのめり込んでゆく。そして、30歳を目前に瀬戸の名門製陶所に轆轤師として就き、陶芸の道に進んだのである。その後陶芸家に弟子入りすることになるが間もなく独立。この間、およそ5年であった。

志野・織部・瀬戸黒・焼締・粉引・赤絵など多種多様な作品を制作していた太田は、特に黄瀬戸には執心して取り組んでいた。

太田さんの作風で特徴なるものは、作品の芯の強さと柔軟性にある。それは、リズムを刻みながら音を豊かに奏でるベースギターの性質にも似ている。

太田さんに会うことはできないが、太田が遺した作品から、黄瀬戸の豊かな音色をいつまでもいつまでも心地よく聴くことができるのである。

 
                                                  黒田佳雄

 


 

北大路魯山人 日月椀

 

わたくしども黒田陶苑と、もっとも縁の深い魯山人先生の漆芸作品を代表する日月椀。

極く薄く作った木地に和紙を張りつけ漆を塗り重ねる一閑塗の技法で制作されています。金箔と銀箔の砂子を厚みをつけて蒔き、太陽と月を表しています。

2013年にフランス・パリにある国立ギメ美術館で行われた北大路魯山人展では、同タイプの作品が、メイン会場に象徴的に飾られました。

 現在、各地でこの名作の複製品が数多く作られており、魯山人先生の革新的な独創作品が、今や和の伝統にまでになっております。

 


 

北大路魯山人 | Kitaoji Rosanjin

1883
京都市北区上賀茂北大路町に生まれる
1907
東京で書家として活動を始めるが挫折し放浪
1916
挫折し、韓国・中国・滋賀・福井・金沢など放浪し京都へ戻る
1919
東京で美術骨董店を開業
1921
骨董店の顧客を対象に、自らの料理を供する「美食倶楽部」を始める
1923
美食倶楽部で使用する食器の外注制作を始める
1925
料亭「星岡茶寮」を経営
1928
星岡茶寮の食器を製作するための製陶所「星岡窯」を鎌倉に設ける
その後、百貨店や茶寮などで作品即売会を催し評判を呼ぶ
1935
陶芸創作に専念するようになる
1936
星岡茶寮の経営から離れる
1937
北大路魯山人新作展(弊社主催)
1939
この頃「星岡窯」は50名余が従事し活況を呈する
1942
戦時下、石川に疎開し漆芸作品などを制作
1954
ロックフェラー財団の招聘によりニューヨークなどで個展を開催
アメリカ・ヨーロッパなどを歴訪
1955
重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退
1956
東京・京都・名古屋などで盛んに個展を開催する
1959
逝去(享年77歳)

 

Rosanjin KITAOJI [Jitsugetsu (sun and moon) lacquered bowl]


 

岡部嶺男 粉青盃

 

 

岡部嶺男 粉青盃のこと

「土の芸術として最後の姿が青瓷として現れた」
陶芸界の鬼才と呼ばれた岡部嶺男は、加藤唐九郎の長男として愛知県瀬戸市に生れます。
幼い頃から陶器に触れていた嶺男は、高校時代には製陶法や轆轤技術はすでに習熟しており、卒業の頃には教師よりも卓抜した技量を備えるまでになっていた。在学中に習作した黄瀬戸や織部は、桃山時代の古陶と遜色なくできあがっていました。
戦後、昭和二十二年頃から本格的に陶芸家として活動を始めた嶺男は、志野・織部・古瀬戸などの伝統的な技法を用いて斬新な作品を発表し注目を浴び、一躍人気作家となった。昭和三十七年、嶺男四十三歳の頃「青瓷」の研究を始めることになる。それは窯での焼成の際に、ある偶然が引き起こした窯変から始まったのであるが、天性の才能と人並みはずれた努力の賜物として、四十六歳で紺綬褒章を受章するころにはすでに「青瓷」は完成を見て、さらに進化させた「粉青瓷二重貫入」を世に問うことになり、当時の皇居正殿梅の間に粉青大花瓶一対を納める栄誉も得たのである。
この作品は、嶺男が苦心の末に完成させた粉青瓷二重貫入のぐい呑である。
氷裂貫入とも呼ばれる美しいその釉薬は、中国南宋時代の青瓷を凌駕するとも謂われたほどの清冽で高雅な美を纏っています。
見込を覗き込めば吸いこまれるように見入ることになり、その美は、宝石の輝きにも似ています。

 


 

岡部嶺男 おかべみねお

1919 愛知県瀬戸市に生まれる(加藤唐九郎の長男)
1938 東京理科大学に入学
1940 大学を中退し入営。各地を転戦
1945 敗戦後、捕虜となる
1947 復員。愛知県豊田市平戸橋に移る
    作陶を再開する
1954 日展北斗賞を受賞
1962 青瓷を始める
1965 紺綬褒章を受章
1968 愛知県日進に移る
1970 窯変米色瓷が完成
1978 病に倒れ半身不随になる。加藤から岡部に改姓
1989 再起新作展を開催し新作を発表
1990 逝去(享年70歳)
2011 没後20年回顧展[宿命-岡部嶺男展](銀座 黒田陶苑)

 Mineo OKABE [Sake cup, Funsei-hai]


 

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