小山冨士夫先生が28歳の時に京都で制作を始めた頃に制作した白磁のぐい呑です。
箱書きに「昭和三年 京都今熊 男女池畔ニテ 作之 昭和四十九年 作陶十年記念ニ
〇〇〇〇贈之」と1974年に自筆されています。
(昭和3年・1928年に京都市東山区今熊野にあった男女池のほとりの工房でこれを作った。昭和49年・1974年に第四の人生で始めた作陶の10周年の記念の時に、某氏にこれを譲った)の意。
もともとこの作品は、昭和初期という時代を鑑みると煎茶茶碗として制作したものと推測できますが、後年になって小山冨士夫先生自身が酒盃・酒觴としてあらためたものです。
あと数年で制作されてから百年を経過することになるこのぐい呑には、明確な歴史が確証されており、さらには現代陶芸の歴史を物語るものと云えましょう。
この作品を作ったのちに陶芸を挫折、編集者になり、研鑽努力して世界的な東洋陶磁学者になり、そして、役人になって人間国宝の育成に尽力、最終的には若き日に志した陶芸家として人生を終焉した小山冨士夫先生。
不定形・重厚が特徴の小山の陶芸作品が有名ですが、実はこのような繊細な作行が基礎になっていることがわかります。その意味においても貴重な一品です。
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小山冨士夫 | Fujio Koyama
1900
岡山県倉敷に生まれる
1920
一橋大学に入学
1925
瀬戸に移り矢野陶々に師事
1926
京都の真清水蔵六に師事
1927
陶芸家を志す
1932
古陶磁研究誌の編集員になる
1933
文部省嘱託の重要美術品等調査員になる
1952
文化財保護委員会事務局無形文化課に就く
1961
[永仁の壷事件]により文化財保護委員会を辞職
1966
鎌倉に築窯、再び作陶活動を開始
1967
日本工芸会理事長に就任
1973
岐阜県土岐市に移り、花の木窯を創設
1975
逝去(享年75歳)