1989年。51歳の鯉江良二先生は、妻子を常滑に残し、愛知・奥三河の山間部、標高900メートルに位置する設楽町に工房を移しました。
それまで拠点にしていた海まで徒歩1分、標高1メートルの知多半島西岸の常滑の工房とは、まったく違う環境を鯉江は選ぶ。そこは、山の奥深く森林の深い緑に囲まれた地でした。
その緑に囲まれた工房で創り出したのは、器物の全体を緑色の釉薬で包み込んだ[オリベ・シリーズ]でした。
この時、鯉江が始めた織部[オリベ]は、[白い]シリーズ作品と同様に陶芸界に与えたインパクトは強くその影響力に伴い、全国各地の陶芸家が織部釉を全体に掛けた作品を作り始めたほどでした。
鯉江良二先生は、森の中の生活で緑の力を感じ、その美の力を作品に込めていった。鯉江先生の[オリベ・シリーズ]は、自然美礼賛だったのです。
1980年代末というのは、1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故の全容が明らかにされ始めた頃で、鯉江は想うこと多く、オブジェ[チェルノブイリ・シリーズ]も盛んに作り発表を重ねていました。
このオリベの鉢は、型打ち技法で作られています。その型に鯉江は、ベン・シャーン(1898~1969)の[ラッキードラゴン]の英詩を刻みつけました。
その刻みつけた文字は、器には鏡文字になって表れています。作者印はありません。
なにげないような皿の裏に、悲惨な史実。
鯉江良二先生は、陶芸作品・やきものは、未来の人へ向けてのメッセージ・証言だと言いました。
以下、オリベ英詩文鉢に刻まれたベン・シャーンの[ラッキードラゴン]
i AM A FISHERMAN.
AIKICHI KUBOYAMA
BY NAME. ON THE
FIRST OF MARCH
1954 OUR FISHING
BOAT THE LUCKY
DRAGON WANDERED
UNDER AN ATOMIC CLOUD
EIGHTY MILES FROM
BIKINI. I AND MY FRIENDS
WERE BURNED.
WE DID NOT KNOW
WHAT HAPPENED TO US.
ON SEPTEMBER TWENTY
THIRD OF THAT YEAR
I DIED OF ATOMIC BURN.
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鯉江良二 | Ryoji Koie
1938
愛知県常滑市に生まれる
1957
愛知県立常滑窯業高校卒業
1962
常滑市立陶芸研究所入所
現代日本陶芸展入選
1970
大阪万博の大型陶製ベンチ制作参加
1971
現代の陶芸展出品(東京・京都国立近代美術館)
1972
ファエンツァ国際陶芸展出品(イタリア)
国際名誉大賞受賞(バロリス国際陶芸ビエンナレ)
1973
京都にて初個展(造形作品とインスタレーション展示)
1978
現代の工芸展招待出品(京都国立近代美術館)
1981
CLAYWORK-やきものから造形へ展招待出品
1982
伝統と前衛展招待出品(サントリー美術館)
1986
日本の前衛展出品(ポンピドウセンター/パリ)
1987
鯉江良二茶碗展(銀座 黒田陶苑) 以降毎年個展開催
60年代の工芸展出品(東京国立近代美術館)
1992
愛知県立芸術大学教授就任
1993
日本陶磁協会賞受賞
2001
織部賞受賞(岐阜県)
2002
愛知県常滑市天竺に穴窯を設営
2004
愛知県立芸術大学教授退官
2008
日本陶磁協会賞金賞受賞
2013
手術後遺症により声を失う
2020
逝去(享年82歳)
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