加守田章二 灰釉花瓶

 

1960年代に栃木・益子で、穴窯を使って灰釉作品を制作していた加守田章二先生。

安定した大量焼成が可能な「登り窯」が主流だった当時の益子にあって、中世の古陶風の作調を求めて、不安定で失敗が多い古風な穴窯を使い制作することは、大きな冒険でした。

常滑の鯉江良二に相談するなど改良を重ね、目標としていた濃緑色の美しい釉色を実現。
1962年に最初の穴窯を築いてから3年後の1965年には、公募展で受賞するなど世評の評価を得るようになり、その濃緑色と淡青色が混在する美しい穴窯灰釉によって加守田章二の名を一躍有名にすることになりました。

この作品は、加守田章二の灰釉の特徴を詰め込んだような作品で、轆轤目をあえて強調した筒型の花瓶です。
やや開き加減に上部に向かって立ちあがる造形はシャープで、巧みな轆轤のわざが映し出されています。

 


加守田章二 かもだしょうじ

1933 大阪府岸和田市に生まれる
1952 京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学
1956 京都市立美術大学卒業。茨城日立に移り製陶所に勤務
1959 栃木県益子に移り制作を開始
1962 穴窯での灰釉作品の制作が始まる
1965 灰釉作品が注目される
1966 日本陶磁協会賞を受賞
1967 高村光太郎賞を受賞
1969 岩手県遠野に移り、その後作品は毎年変化していく
1970 [曲線彫文]を発表
1971 [彩色]を発表
1974 [陶板展](銀座 黒田陶苑)以後毎年出品
1979 東京東久留米に工房を移す
1983 逝去(享年49歳)


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河井寛次郎 海鼠鉢


 

中国・宋時代の鈞窯に原初をうかがうことができる格調高い寛次郎の鉢です。

タチアオイ・木槿などの気品高い花木の花びらをモチーフにし形作られ、中国の宮廷料理の高級食材であるナマコの色に似ていることから、海鼠釉と名付けられた青と黒と淡青の色調が美しい作品。

釉薬の天才と呼ばれた寛次郎が、民藝運動に参画し活動を始めた当初の作品で、民藝スタイルの重厚・骨太の印象があります。
超絶技巧・繊細精緻を誇った民藝参加以前の作風とは一線を画しながらもなお、美しい釉薬表現を目の当たりにすれば、釉薬の天才の片鱗を隠しきれないでいる民藝参加直後の寛次郎の心の葛藤が垣間見れます。

民藝運動によって生まれた各地の民芸品に、このような作風が多く存在するのは、この寛次郎作品の影響があると考えられています。

 


 

河井寛次郎 かわいかんじろう

1890 島根県安来市に生まれる
1914 東京高等工業学校窯業科卒業
  京都市陶磁器試験場へ入所
1920 京都五条坂で制作活動を開始。工房を[鐘渓窯]とする
    中国や韓国の古陶磁を参考にした作品を制作
1922 東京での個展が好評を博し、名声が高まる
1924 スリップウエアに感激し、作風が変化
1926 柳宗悦・濱田庄司らと民芸運動を起こす
  簡素な形にオリジナル図案を施した作品を制作
1937 パリ万国博でグランプリを受賞
1949 創作的な作品の制作が始まる
1966 逝去(享年76歳)

 


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楠部彌弌 色絵今年竹ぐい呑

 

 

文化勲章受章者である陶芸家・楠部彌弌の代表作は、磁器による彩延技法を駆使した作品で有名。

それに加え、制作拠点が京都ということもあって、江戸時代に京焼の基礎を築きあげた野々村仁清の作風を継承した作品も多く残しております。この作品は、野々村仁清に敬意を表した仁清タイプの稀少なぐい呑。

酒器作品が少ないことで知られる楠部彌弌の今まで知られていなかった作品で、新発見といっても過言ではないものです。

広く浅い筒型の形状に、緑と紫の色絵で若竹を描き、輝くピュアゴールドの金彩を施しています。高台に「彌弌」の刻印があります。

 


 楠部彌弌 くすべやいち

1897 京都市東山に生まれる
1912 京都陶磁器試験場付属伝習所入所
1918 京都三条で作陶をはじめる
1920 作陶家集団[赤土社]を結成
1924 パリ万国博覧会に出品し受賞
1927 帝展初入選
1937 彩延技法が完成(延は、土ヘンに延)
1938 京都岡崎に住居・工房を移す
1962 日本芸術院会員となる
1965 京都山科に工房を移す
1969 京都市文化功労者となる
1972 毎日芸術賞受賞
      文化功労者となる
1975 京都市名誉市民となる
1978 文化勲章を受章
1984 逝去(享年87歳)

 


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三輪壽雪 萩焼盃

 

人間国宝 ・ 11代三輪休雪の最晩年期の稀少な作品。号・三輪寿雪。

長男の龍作氏に家督を譲り、壽雪(じゅせつ)と名乗った11代休雪。
この作品は壽雪が96歳の時の大振りな縦型のぐい呑で、円熟枯淡のゆったりとした轆轤さばきで作られています。大きな雪白のぐい呑は、神々しくそして重々しい存在。

96歳の皺々ながらもしっかりとした手指でつくられたぐい呑のレジェンドです。

 三輪寿雪 Jyusetu Miwa みわじゅせつ


 

十一代三輪休雪 (三輪壽雪) みわきゅうせつ

1910 山口県萩市に生まれる(九代三輪雪堂の三男)
1927 家業に従事し、作陶を始める
1955 三輪休と号。三輪節夫の本名で作品発表を始める
1960 日本工芸会正会員になる
1967 十一代三輪休雪を襲名
1972 山口県指定無形文化財に認定
1976 紫綬褒章を受章
1982 勲四等瑞宝章受章
1983 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1990 勲四等旭日小授章受賞
2003 家督を長男・龍作に譲り、「壽雪」(じゅせつ)と号す
2012 逝去(享年102歳)


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河井寛次郎 青瓷魚善血文瓶子 [鐘渓窯]

 

陶芸界に彗星が現れたと云われた河井寛次郎のデビューは、鮮烈でした。
中国南宋時代の、それまでは再現が困難と云われた青瓷・天目などを若き河井寛次郎は、本物に迫るような質感をも再現していたのである。

この作品は青磁に辰砂を組み合わせたもので、青磁の青緑と辰砂の紅色を同時に美しく発色させる技術は、誰も到達できなかった神技でありました。だれもが寛次郎の天才ぶりに驚愕したに違いなく、この作品はその高度な技術をいかんなく発揮したもので、青磁・辰砂ともに最高の発色を呈しています。
魚ヘンに善と書いて「ぜん」と読み、その文字はアナゴの意。その文字を使用したのは、当時の中国文化の趣味趣向の影響によるものと推測されます。

鐘渓窯時代の河井寛次郎・作品は、小品に名作が多く存在しており、この作品もその中で輝く一品です。

 


 河井寛次郎 かわいかんじろう

1890 島根県安来市に生まれる
1914 東京高等工業学校窯業科卒業
     京都市陶磁器試験場へ入所
1920 京都五条坂で制作活動を開始。工房名称を[鐘渓窯]とする
        中国や韓国の古陶磁を参考にした作品を制作
1922 東京での個展が好評を博し、名声が高まる
1924 スリップウエアに感激し、作風が変化
1926 柳宗悦・濱田庄司らと民芸運動を起こす
     簡素な形にオリジナル図案を施した作品を制作
1937 パリ万国博でグランプリを受賞
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1966 逝去(享年76歳)


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岡部嶺男 窯変米色瓷盃

 

 岡部嶺男先生の窯変米色瓷のぐい呑。

1970年に完成を見た「窯変米色瓷」はその後、釉調・釉色の研究を経て、形状は中国南宋時代の格調高い形式を取り入れ、さらに重厚に高格なものへと変化し、1978年の突然の病いにより、制作の中断を余儀なくされるまで、嶺男の手によって熟成を続けていました。

この作品は、結果的に「窯変米色瓷」の最高到達時期となった1977年に制作された作品である。格調高い天目形を深くした形は、嶺男のぐい呑を象徴するものであり、美しい窯変米色瓷の深い色合いを引き立たせています。
見込を覗き込むと吸いこまれるような感覚は、他では味わえない。

1978年以降、病いにより筆を持てなくなった嶺男は、作品の箱書きをご夫人に託されていました。この作品は、ご夫人が代筆された箱に納められています。

 


 

岡部嶺男 おかべみねお

1919 愛知県瀬戸市に生まれる(加藤唐九郎の長男)
1935 学校に通いながら家業に従事し、作陶を始める
1938 東京理科大学に入学
1940 大学を中退し入営。各地を転戦
1945 敗戦後、捕虜となる
1947 復員。愛知県豊田市平戸橋に移る
    作陶を再開する
1954 日展北斗賞を受賞
1962 青瓷を始める
1965 紺綬褒章を受章
1968 愛知県日進に移る
1970 窯変米色瓷が完成
1978 病に倒れ半身不随になる。加藤から岡部に改姓
1989 再起新作展を開催し新作を発表
1990 逝去(享年70歳)
2011 没後20年回顧展[宿命-岡部嶺男展](銀座 黒田陶苑)


Mineo Okabe
1919 Born in Seto, Aichi prefecture.
1937 Graduated from Seto Ceramic High School.
1938 Entered into Tokyo University of Science.
1940 Dropped out from the university. Entered into the army of inner Mongolia.
1947 Demobilization from the army. Settled in Hiradobashi, Aichi. (current Toyota city)
1949 Independently began ceramics in Hiradobashi. Married to Tatsuko.
1955 Received the award of the Japanese Ceramics Society at the first time.
1963 Started focusing on researching celadon. Moved to Nisshin, Aichi.
1965 Succeeded in producing 'Funseiji' (粉青瓷) Powdery Celadon. Received Medal with Dark Blue Ribbon.
1969 Dedication of a set of Celadon vases to Umenoma room of Imperial Household Agency
1970 Succeeded in producing Yohen Beishokuji. (窯変米色瓷)
1978 Hospitalization by cerebral hemorrhage. Changed his sir name from Kato to Okabe.
1989 Exhibition of new works from recovery at Matsuzakaya department store in Nagoya.
1990 Passed away at the age of 70.
2011 Retrospective exhibition [Destiny] at Ginza Kuroda Touen.


Sold


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加守田章二 一九七九 壷のこと

加守田章二 一九七九 壷のこと

 

毎年、春と秋に開催していた個展のたびに、作風を変化させ発表していた陶芸界の鬼才・加守田章二先生。

1969年にそれまでの益子から岩手・遠野へと工房を移し、遠野の土を使った作品制作に取りくんでいた遠野時代。その10年後の1979年になって加守田は東京・東久留米に工房を移しました。

遠野での遠野土による重厚な作風は、この時に劇的に変化を遂げることになった。それは、素材を白い磁土に変更したことによってもたらされた色彩の変化が大きい。

色釉や色絵・赤絵を使えるようになり、彩色表現が自由になり、より明るく美しい、軽快感あふれるいわば、都会的な作風へとかわってゆくのです。

この作品は、白く細かい磁土を用い、黒釉で地を作りストライプ状の文様には紺・緑・透明の色釉を施し、上絵によって朱の色を付けています。文様は加守田の晩年の代表的なもので、私どもではこの文様を指して「光線」と称しておりますが、黒の地に明快な色彩が印象的で、エッジを効かせたシンプルな造形とも良く似合っています。

新天地・東京において作られた加守田章二の洗練されたセンスが光る一品。

36年前の作品ですが、現在も色褪せない美しい光線を放っているようです。

 

 


加守田章二 一九七九 壷 
h27.2×w16.1×d11.9cm 1979年 共箱