北大路魯山人 呉須赤絵赤玉馬上盃

90年ほど前に作られた北大路魯山人先生の作品です。

中国の明時代に多く作られ、同時代に日本に輸入されていた「呉須赤絵」と呼ばれる古陶磁の雰囲気そのままを魯山人先生がアレンジし作品化しています。
最高級の朱を使い、赤玉と呼ばれる宝珠文を象徴的に大きく入れ込み、格子文はか細く描くというセンスは魯山人の真骨頂を示します。
格調高い形式の馬上盃の姿の良く似合っています。
ブランドマークのように高台に赤絵で「ロ」とサインしてあり、おしゃれな印象です。


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北大路魯山人 | Rosanjin Kitaoji

1883
京都市北区上賀茂北大路町に生まれる
1907
東京で書家として活動を始めるが挫折し放浪
1916
挫折し、韓国・中国・滋賀・福井・金沢など放浪し京都へ戻る
1919
東京で美術骨董店を開業
1921
骨董店の顧客を対象に、自らの料理を供する[美食倶楽部]を始める
1923
美食倶楽部で使用する食器の外注制作を始める
1925
料亭[星岡茶寮]を経営
1928
星岡茶寮の食器を製作するための製陶所[星岡窯]を鎌倉に設ける
その後、百貨店や茶寮などで作品即売会を催し評判を呼ぶ
1935
陶芸創作に専念するようになる
1936
星岡茶寮の経営から離れる
1937
北大路魯山人新作展(弊社主催)
1939
[星岡窯]は50名余が従事し活況を呈する
1942
戦時下、石川に疎開し漆芸作品などを制作
1954
ロックフェラー財団の招聘によりニューヨークなどで個展を開催
アメリカ・ヨーロッパなどを歴訪
1955
重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退
1956
東京・京都・名古屋などで盛んに個展を開催する
1959
逝去(享年77歳)


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北大路魯山人 黄瀬戸印花文ぐい呑

今から100年ほど前に作られた北大路魯山人先生のぐい呑です。
もともとは、魯山人先生が経営されていた高級料亭・星岡茶寮で使用するために作られたものです。
桃山時代の黄瀬戸をモチーフにした可愛らしいサイズのぐい呑で、形状も黄瀬戸を象徴する半筒形にしてあり、見込み(内底)には、菊模様の印花が施してあります。高台も黄瀬戸に倣って碁笥底にするこだわりを見せつけています。
高台内に星をデザイン化したサインが釘彫りされています。


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北大路魯山人 | Rosanjin Kitaoji

1883
京都市北区上賀茂北大路町に生まれる
1907
東京で書家として活動を始めるが挫折し放浪
1916
挫折し、韓国・中国・滋賀・福井・金沢など放浪し京都へ戻る
1919
東京で美術骨董店を開業
1921
骨董店の顧客を対象に、自らの料理を供する[美食倶楽部]を始める
1923
美食倶楽部で使用する食器の外注制作を始める
1925
料亭[星岡茶寮]を経営
1928
星岡茶寮の食器を製作するための製陶所[星岡窯]を鎌倉に設ける
その後、百貨店や茶寮などで作品即売会を催し評判を呼ぶ
1935
陶芸創作に専念するようになる
1936
星岡茶寮の経営から離れる
1937
北大路魯山人新作展(弊社主催)
1939
[星岡窯]は50名余が従事し活況を呈する
1942
戦時下、石川に疎開し漆芸作品などを制作
1954
ロックフェラー財団の招聘によりニューヨークなどで個展を開催
アメリカ・ヨーロッパなどを歴訪
1955
重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退
1956
東京・京都・名古屋などで盛んに個展を開催する
1959
逝去(享年77歳)


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鈴木 治 シガラキ酒盃

鈴木 治先生の稀少な信楽ぐい呑です。
大振りで見応えがある逸品。

走泥社という京都を中心にした陶芸作家グループの主力メンバーで、京都芸術大学の教授を務めていた鈴木 治先生の酒盃です。
おさむというお名前でしたが、当時は「はるさん・はる先生」と呼ばれていました。

1990年代に滋賀県信楽の穴窯で制作した作品で、鈴木先生の酒盃としてはかなり大きなものです。主に信楽の穴窯では、「穴窯泥象」(あながまでいしょう)というオブジェ(立体作品)を作りました。一部、花器やうつわ、酒器などを限定的に制作。この作品はその中の稀少な1点です。
高台脇に釘彫サインがあります。

 


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鈴木 治 | Osamu Suzuki

1926
京都市東山に生まれる
1948
走泥社を結成し参加
1962
プラハ国際陶芸展で金賞を受賞
1979
京都市立芸術大学美術学部教授に就任
1984
日本陶磁協会賞金賞を受賞
1985
毎日芸術賞を受賞
1987
京都府文化賞を受賞
1992
京都市立芸術大学美術学部教授を退任
2001
逝去(享年75歳)


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松井康成 萃瓷練上盃

人間国宝・松井康成先生の最晩年の代表作・萃瓷練上のぐい呑です。

人間国宝に認定された翌年の1994年に作られたこの作品は、宝石やガラスのような色彩が鮮やかで、透明感のある輝きがあるのが特徴です。
この作品が発表された当時、初見で私も陶器とは思えないと思ったほどです。
萃瓷の連作は花をイメージしたものに特化されており、この酒盃も黄色い花が咲き乱れているような印象があります。
大振りに作られているのもこの時期の特徴です。松井先生の最晩年期は、病いとの闘いの日々でもあり、残されている作品は限定的です。
高台内に「康」の釘彫サインがあります。


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松井康成 | Kosei Matsui  

1927  
長野県北佐久郡に生まれる
1960 
茨城笠間において窯を作り古陶磁の研究を始める
1967  
田村耕一に師事
[練上]の技法を始める
1971 
日本伝統工芸展工芸会総裁賞受賞
1973  
現代工芸の鳥撤展に招待出品(京都国立近代美術館)
1975 
[練上嘯裂]を始める
1978
[象裂瓷]を始める
1981 
[練上茜手]を始める
1983 
[堆瓷]を始める
1985 
[破調練上]を始める
1987 
[練上風白地]を始める
1988  
紫綬褒章を受章
1989 
[晴白練上]を始める
1992  
萃瓷練上を始める
個展[練上陶筥展](銀座 黒田陶苑)
1993  
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
2003  
逝去(享年77歳)


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濱田庄司 地釉縁黒胴紐盃

世界の濱田と言われて久しい、濱田庄司先生のぐい呑です。

その名声どおり、その名は広く海外に知れ渡っています。国内では、陶芸の父され愛着と尊敬の念をもって呼ばれています。
この作品の箱書きには、書き付けるスペースが無いため「盃」とだけ書かれていますが、作品名とすると「地釉縁黒胴紐盃」となることでしょう。
地釉(じぐすり)は濱田がもっとも多用した釉薬でグレー色とわずかに現れる梅華皮(かいらぎ)が特徴です。縁黒(ふちくろ)とは、濱田が唐津焼の皮鯨(かわくじら)文様からヒントを得て多用したデザインです。さらに、胴紐(どうひも)は読んで字の如く、胴部を紐を巻いたように一段高く成形するもので、濱田は好んで茶碗や湯呑、ぐい呑に多用していました。
つまりこのぐい呑は、濱田づくしと言ってよいほど、濱田庄司の特徴を盛り込んだ作品になっています。見込(内側)には、ほのかな紅みがさしていて優しさもある。
ドメスティックなイメージのある濱田ですが、これは上品で上質の雰囲気があり、高級感も漂わせています。箱書きや作風から、1970年代の作品と推察されます。
生まれ育ちが良く成績優秀で、人格優れ頼もしい「陶芸の父」らしい作品です。


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濱田庄司 | Shoji Hamada

1894
神奈川県川崎市に生まれる
1916
東京高等工業学校窯業科卒業
京都市陶磁器試験場へ入所
1920
バーナードリーチの誘いで渡英
1924
帰国後、沖縄・京都などに滞在する
1926
柳宗悦・河井寛次郎らと民芸運動を起こす
1931
栃木県益子の住居に登窯を築く
1942
古民家を移築し、陶房兼住居とする
1955
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1968
文化勲章を受章
1978
逝去(享年84歳)


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金重素山 伊部愚意呑

備前焼の人間国宝の金重陶陽を兄に持ち、備前焼の巨匠として君臨していた金重素山。電気窯を使って備前焼を作るなど伝統を打ち破る革新的な活動をした作家でもありました。

この作品は、金重素山の最晩年に制作された酒器です。重厚な窯変の焼き上がりは、素山の特徴を表しており、とても良い出来上がりです。

作品名の伊部とは、いんべと読み、素山が晩年に工房を構えた備前市伊部の地名からとったものであり、かつ古来から特別な呼び名としてあった「伊部焼」を意識したものです。
愚意呑とは、ぐいのみと読み、晩年に出来上がりの良い酒器にこの名をつけていました。

他には見かけることがない、大振りで焼上がりも良く、素山備前の魅力が満載されたぐい呑です。
高台内に手印サインがあります。


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金重素山 | Sozan Kaneshige

1909  
岡山県備前市に生まれる
1927  
家業に従事し作陶を始める
1951 
京都亀岡に移る
1953  
亀岡で粉引・錬込等の作品を制作
1964  
岡山市円山に移り、登窯[円山窯]を築窯
1966 
電気窯による備前緋襷が完成
1983  
岡山県指定重要無形文化財保持者に認定
伊部に築いた[午神下窯]の初窯を焚く
1991
勲四等旭日小綬章を授章
1995
逝去(享年86歳)


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