1948年頃からスタートした嶺男の作陶活動は、志野・織部・黄瀬戸などの桃山時代の古陶磁に原初をみる作風を展開させていましたが、小山冨士夫と出会い、その交流や影響もあって、1963年に「青瓷」作品を初めて発表することになります。
その「青瓷」は、のちに幾重にも氷裂が入った多重貫入が美しい「粉青瓷」へと変貌を遂げ、さらに1970年には、今までにない重厚な色合いの「窯変米色瓷」へと昇華してゆきました。
1970年以降は、1978年(59歳)に脳出血の後遺症により右半身不随となるまで、
「粉青瓷」と「窯変米色瓷」は、並行して制作されました。
この作品は、岡部嶺男の最盛期に完成させ最高峰と称される「窯変米色瓷双耳砧」です。
通常、左右対称につけられる双耳をあえて非対称とし、斜め上から射抜いたような造形意匠に特徴があります。天と地を指し示す釈迦生誕・誕生仏の姿にもみえてまいります。
鬼才と呼ばれた陶芸家・岡部嶺男の作品の中でもっとも藝術的独創を誇る意欲作です。
岡部嶺男 Okabe Mineo
1919
愛知県瀬戸市に生まれる
加藤唐九郎の長男
1938
東京理科大学に入学
1940
大学を中退し入営。各地を転戦
1945
敗戦後、捕虜となる
1947
復員。愛知県豊田市平戸橋に移る
作陶を再開する
1954
日展北斗賞を受賞
1962
青瓷を始める
1965
紺綬褒章を受章
1968
愛知県日進に移る
1970
窯変米色瓷が完成
1978
病に倒れ半身不随になる。加藤から岡部に改姓
1989
再起新作展を開催し新作を発表
1990
逝去(享年70歳)
2011
没後20年回顧展[宿命-岡部嶺男展](銀座 黒田陶苑)